樋口一葉「たけくらべ 一」

                  一

 (ここから)回ると大門の見返り柳まで長い道のりだが、お歯黒溝に燈火が映る三階

(妓楼)の騒ぎは手に取るように聞こえる。明け暮れなしの車の行き来にはかり知れな

い全盛を見、大音寺前という仏臭い名だが大層陽気な町だと人は言う。

 三島神社の角を曲がってからはこれという建物はなく、傾いた軒端の十軒長屋二十軒

長屋ばかりなので商売にはまったく向かないところ。半ば閉めた雨戸の外で、怪しげな

形に紙を切り胡粉を塗った、色を塗った田楽のように見える、裏に貼った串の様子も

おかしなものを一軒ならず二軒ならず朝日に干して夕方にしまう大げさな手入れを一家

でかかり切っているのでそれは何かと聞くと「知らないのですか、十一月の酉の日に例

の(大鳥)神社で欲深様が担いで歩く、これこそ熊手の下ごしらえですよ」と言う。

正月の門松を取り払う頃から始めて一年通して作っているのは本当の商売人、片手間に

でも夏から手足を染めれば新年着の支度にも当てられるのだろう。「南無や大鳥大明

神、買う人にさえ福を与えるというのだから製造元の我らには万倍の利益を」と誰もが

言うがそれは思いのほかのこと、この辺りに大長者がいるという噂も聞かない。

 住む人の多くは廓(に勤める)者で、夫は小格子(格式の低い店)のなんとやら、

下足札を揃えてがらんがらんの(景気づけまたは縁起かつぎに立てる)音も忙しく、

夕暮れから羽織をひっかけて出かければ、後ろで切り火を打つ女房の顔もこれが見納め

か、十人切りのとばっちりや無理心中のしそこねなど、恨みのかかるこのような身の

果ては危うく、すわと言う時は命がけの勤めなのに遊山らしく見えるからおかしい。

娘は大籬(格式の高い店)の下新造だとか、七軒ある引手茶屋の何屋の客回しだとか、

提灯下げてちょこちょこ走る修行中。卒業して何になるのかともかく檜舞台だと見立て

ているのもおかしくはない。垢抜けのした三十余りの年増が小ざっぱりとした唐桟揃い

に紺足袋をはいて雪駄をちゃらちゃらと忙し気に、横抱きの小包は聞かなくてもわか

る、茶屋の桟橋でとんと合図して、回ると遠いからここから渡しますよと言うのは誂え

ものの仕事屋さんとこの辺りでは言う。一帯の風俗はよそと違って、女子供で後ろ帯を

きちっとした人は少なく、柄物を好んで幅広の巻き帯。年増ならまだいいが、十五六の

小癪なのがほうずきを含んでこんななりをするとはと目を閉じる人もいるが、場所柄

是非もない。昨日河岸店(格式低い)にいた何紫という源氏名がまだ耳に残るの女が、

今日は地回り(ならず者)の吉と手慣れぬ焼き鳥の夜店を出しても、無一文になったら

また古巣でお内儀姿となる。どこか素人よりは格好よく見えるのか、(このような風俗

に)染まらない子供はない。

 秋は九月、仁和賀の頃の大路を見るとよい。それにしてもよく練習したものだ、露八

の物まねや栄喜の所作など孟子の母も驚くだろう上達の早さ。うまいと褒められて今夜

も一回りしてこようと、生意気は七つ八つから高じてやがて肩に置き手ぬぐい、鼻歌の

そそり節、十五の少年のませ方は恐ろしい。学校の唱歌にもぎっちょんちょんと拍子を

取って、運動会には木遣りもやりかねない。ただでさえ教育は難しいのに教師の苦心が

思いやられる。入谷近くに育英舎という私立であるが生徒の数は千人近く、狭い校舎に

目白押しの窮屈さも教師の人望がわかるというもの、ただ学校と言ってもこの辺りでは

そこだと通じるほどだ。通う子供の中には火消し、鳶人足、おとっさんは跳ね橋の番屋

にいるよと習わずして知るその道の賢さ。はしご乗りの真似をして忍び返しを折りまし

たとつべこべ訴える三百代言の子もいる、お前のお父さんは馬だねと(先に)言われ

名乗るのもつらい、子供心に顔を赤らめるしおらしさ。出入りの貸座敷の秘蔵息子は寮

住まいで華族様を気取って房付き帽子に豊かな顔つきで洋服を華々しく着ている子に、

坊ちゃん坊ちゃんと追従する子もいるのもおかしい。

 たくさんの中に龍華寺の信如という豊かな黒髪もあと何年の盛りか、やがては墨染め

(僧衣)に変える袖の色。発心は心からだろうか、跡取りの勉強家がいた。おとなしい

性分を友達がつまらなく思ってさまざまないたずらを仕掛け、猫の死骸を縄に括りつけ

て「お役目ですから引導を頼みます」と投げつけたこともあったが、それも昔。今は

校内一の人となったので仮にも侮るようなことをしなくなった。年は十五、背丈は普通

だがいがぐり頭も思いなしか俗の子と違って藤本信如(のぶゆき)と訓読みにしても、

どことなく(名前の上に)釋(仏の弟子)とつけたいような素振りだ。

                  二

 八月二十日は千束神社の祭りなので山車にそれぞれの町の見栄を張り、土手を登って

郭内に入るばかりの勢いで若者の意気込みが思われるというもの。聞きかじりでする

こととはいえ子供の油断ならないこの辺りでは、揃いの浴衣はいうまでもなくそれぞれ

に申し合わせて生意気のありったけ、聞いたら肝もつぶれるだろう。横町組と自認した

乱暴な子供たちの大将は頭(かしら)の長という十六歳。仁和賀の金棒で親父の代理を

した(先導)ことから気分が偉くなって、帯は腰の先、返事は鼻の先で言うものと決め

て憎らしい風体。あれが頭の子でなければと鳶人足の女房達の陰口が聞こえる。心一杯

わがままを通して身に合わない幅を広げている。表町に田中屋の正太郎という三歳年下

の、家に金はあり身には愛嬌があるので人から憎まれない天敵がいる。「俺は私立の

学校に通っているが敵は公立だからといって唱歌も本家のような顔をしている。昨年も

一昨年も敵には大人の後押しがついて、祭りの趣向も自分たちより華々しく、喧嘩にも

手出しできないような仕組みがあるので今年また負けてしまうと、『誰だと思う横町の

長吉だぞ』と日頃にらみを利かせているのに空威張りだとけなされてしまう。弁天堀の

水泳大会でも俺の組に入る者が減るだろう。力は俺の方が強いが田中屋が優し気なのに

ごまかされて、もう一つには学問ができるのを恐れて、横町組の太郎吉や三五郎なども

こっそりあちらについているのも悔しい。祭りは明後日、いよいよこちらが負けそう

なったら破れかぶれだ暴れに暴れて、正太郎の顔に傷一つくらいは俺も片目や片足失っ

てもと思えばやれるだろう。加担するのは車屋の丑に元結縒りの文、おもちゃ屋の弥助

などがいれば引けは取るまい。ああそれよりもあの人あの人、藤本ならいい知恵を貸し

てくれるだろう」と十八日の暮近く、何か言えば目や口にうるさい蚊を払いながら竹の

茂る龍華寺の庭先から信如の部屋にのっそりと、信さんいるかと顔を出した。

 「俺のすることは乱暴だと人は言う、乱暴かもしれないが悔しいことは悔しいや、

なあ聞いてくれ信さん、去年も俺の末の弟の奴と正太郎組のちび野郎と、万燈のたたき

合いから始まって、それっと言うと奴の仲間がばらばらと飛び出しやがって、小さい子

の万燈を打ち壊しちまって、胴上げにして、見やがれ横町のざまを一人が言うと、間抜

けに背の高い大人のような面をしている団子屋の頓馬が、頭もあるものかしっぽだしっ

ぽだ、豚のしっぽだと悪口を言ったとさ。俺はその時千束様に練り込んでいたもんだか

ら後で聞いた時にすぐ仕返しに行こうと言ったら親父さんに頭から小言を食ってその時

も泣き寝入り。一昨年はそら、お前も知っている通り筆屋の店へ表町の若い衆が寄り合

って茶番か何かをやったろう、あの時俺が見に行ったら横町には横町の趣向がありまし

ょうなんて乙なことを言いやがって正太だけを客にしたのも忘れない。いくら金がある

といったって質屋崩れの高利貸しが何様だ、あんな奴は生かしておくより叩き殺す方が

世のためだ。俺は今度の祭りはどうしても乱暴に仕掛けて取返しをつけようと思うよ。

だから信さん友達甲斐だ、そりゃあお前が嫌だというのはわかっているが、どうか俺の

肩を持ってくれ、横町組の恥をすすぐのだからね。本家本元の唱歌だなんて威張って

いる正太郎をとっちめてくれないか、俺が市立の寝ぼけ生徒と言われればお前のことも

同然だから後生だ、どうぞ助けると思って大万燈を振り回しておくれ。俺は心の底から

悔しくて、今度負けたら長吉の立場はない」とむやみに悔しがって広い肩をゆする。

「だって僕は弱いもの」「弱くてもいいよ」「万燈は振り回せないよ」「振り回さなく

てもいいよ」「僕が入ると負けるけどいいのかい」「負けてもいいのさ、それは仕方が

ないとあきらめるから。お前は何もしないでいいから、ただ横町の組だと威張ってさえ

くれたら豪儀だから。俺はこんなわからずやだのにお前は学問ができるからね。向こう

の奴が漢語か何かで冷やかしでもしたらこっちも漢語で返しておくれ、ああいい心持ち

だ、さっぱりした。お前が承知さえしてくれればもう千人力だ。信さんありがとう」

と常にない優しい言葉が出るものだ。一人は三尺帯につっかけ草履の職人の息子、一人

は皮色金巾の羽織に紫の兵児帯という坊様仕立て、考えは裏腹で話は常に食い違いがち

だが、長吉は我が門前に産声を上げたのだと和尚夫婦のひいきでもあり、同じ学校へ

通っているので私立私立とけなされるのも気分が悪い。元々愛嬌のない長吉なので、心

から味方に付く者もない哀れさ、敵は町内の若い衆までが後押しをして、ひがみでも

ないが長吉が負けを取るのは田中屋の方に罪は少なからずある。見込まれて頼まれた

義理があるので嫌とも言いかねて信如は「それではお前の組になるさ、なるというのに

嘘はないが、なるべく喧嘩はしない方が勝ちだよ、いよいよ向こうが売ってきたら仕方

がない、何、いざとなれば田中の正太郎くらい小指の先さ」と自分に力がないことを

忘れて信如は机の引き出しから京都土産にもらった小鍛冶の小刀を取りだして見せると

「よく切れそうだね」とのぞき込む長吉。危ない、これを振り回してなるものか。