反古しらべ その他断片

 虫干ししようとかび臭い反古をたくさん取り出している中に、亡き兄が残した様々な

書き物があった。事細かに記して残してあったのは、亡くなった夏、頭の病が起こる前

の月に心を集中して書いたものだ。もう一つは霜凍る冬の夜、毎晩必ず父母が寝室を

のぞいて足元に物を置き、ふすまの立て付けをあらためて、今夜はとても寒いから早く

寝なさい、風邪をひきますよと母が言うのでそうした。と

 

 この頃かび臭いものを陰干ししようと取り出してみたところ、様々な反古が出てき

た。庚午(明治3年なので壬午・明治5年・10歳の間違いか)一月の書初めなど、幼い

筆遣いが恥ずかしくも懐かしく思える。10年前、歌を詠み始めた頃の詠草を広げてみる

と、紙の終わりに歌の数を細かくしたためて、何年何月より何月までの間などと書いて

あるのは、亡き父の手であった。なんとなく懐かしくも悲しくて詠草を抱きしめ、お父

様、お父様と泣いてしまった。生きていた頃は叱られるのが怖くて、歌を見せることも

しなかったが、今もつたない、つまらない歌を詠んでおり、まあ聞けると言われたもの

を書いて仏様の前に供えた。道ははるかだが親は見守ってくださるだろう。

 父が亡くなる一月ばかり前、何某伯爵の催しのためにあらかじめ題を設けて歌を集め

たことがあった。わが萩の舎の社中もこぞって詠んだが、歌を詠む方々からよい歌が

多くできたと言われたものだった。判者は官民の名士5人であると決まっており、何と

か選に入りたいものだと人々は挑んだので、風流の俗などとあざけられもしたが、おも

しろい争いだった。私は父の病の床で薬を温めたり肩をなでたりしていた頃だったの

で、一つだけざっと読み捨てて、深く心を用いることはできなかった。しばらくして

父の容態が悪くなり、そして空しくなったのでいつしか歌の選のことは忘れていたが、

お葬式を済ませて今日で三七法要という日に、師匠から手紙とともに紙包みが送られて

きた。紙の表を見れば何某大人選甲とあり有松絞の、地は薄いものではあったが、幼心

にどれだけ嬉しかったことだろう。母も見てくれて、妹も喜んでいるところへ、父の

詩文の友である何某のおじさまが来合わせ、ああ、もう一月早かったら病人はどれほど

喜んだことだろう、惜しくも夜の錦(美しい着物も夜には見えない・無駄)だと言わ

れ、本当にこれだけではなく今後もしまたこのような幸運があって、多少晴れがましい

ことがあっても(父以外の)誰が喜んでくれるのだろう、悲しいと思うと再び筆を取る

ことが物憂くなってしまった。(明治28年か)

 

 葉月20日頃、用があってある尼様を訪ねることがあった。同じ通りのあまり塵の多く

ない辺り、何某の神社という古びた朱の鳥居のいわくありげなものを右手に見て、少し

丘のようになった小高い所に、半ば朽ちたような黒木の階段があるのがなんとなく尊く

思え、折しも雨の後だったので下手をすると滑り降りそうなのを辛くも登れば、形ばか

りの庵を結び、雨風をどうやって防ぐのか屋根もまばらに葺いてあり、見れば壁らしい

ものもなくすだれを下ろしている。南側のすだれを掲げて見ると、芝生の岡の向こうは

るかに煉瓦で建てられたいかめしい校舎が見える。見下ろせばこの付近の町が残りなく

見え、行きかう人の足音が聞こえないのが嬉しく、商家ののぼりが風にたなびくのも

風情があり、雅俗の中にある宿に思われる。主の年は30代と聞いたが、くるくると剃っ

た頭も上品でなまめかしく、鼠色の単衣に同じ色の帯を巻いているのもさすがである。

いろいろおもしろい話をして、今の世の様や人のことなど思わず笑ってしまったり、

思いがけなく涙ぐむこともあった。たくさんの話の大半は忘れてしまったが、今も耳に

残っているのは、この世から離れて姿をも変える時の心得について。誰も千歳の松では

ないので、終に命を捨てるべき習いだとはわかっているが、はかない桜の麗しさのため

に、嵐が待っているとはいえせめてそれまでの色を願うものだ。ましてや愚かな者は

おのずから心おごり、夫をえり好みなどして人から憎まれる、尼様も20を越して2年3年

はあれこれと選んだが寄る辺と決める岸もなく、小舟が波に漂うようだったとのこと。

そうしているうちに不思議にも浮世の縁に引かれてふと見染めた男があった。尼様より

20歳上で気立ても愚かではないが、願っていたような気高く雄々しい人ではなかった。

筆は走り俳句は巧み、三味線も弾けるので世の人からはふざけた男だと思われていた。

この人に添って百年の契りを結んでもそれは私一人の誓いであって、この人は流れる雲

の上でどのような風を吹かせるのか。恋の恨みを知っているのにはかない恋にこの身を

破ることはない、もう思わない、この恋を捨てようとした時に怪しくも尼様の心は二つ

に割れてしまった。ある時は清く潔くわれとわが身を罵り、またある時はひたすら落ち

込んで、その人からもらった物言わぬ手紙や写真を抱きしめてさめざめと泣くことも

あった。この身があるからこのようなもの思いをするのだ、もう川に沈んでしまおうと

狂い出すこともあった。しかし常に二つの心が争ってばかりでとうとう思いを遂げる

ことができなかったら自分の人生ははかなくなる。この恋を遂げなくても終には死ぬ身

であり、遂げても捨てられる宿命ならば死ぬべき命と決めて言い出すか、言い出さない

方がいいのか、どうしようとこの時も二つの心に苦しんだ。その頃は世間というものを

大変はばかってこんなことをしていたら人の笑いものになる、人からそしられるなどと

思っていたので終に死にもせず生きもできず、といってその恋を捨てられなかったので

何とか悟りというものを開いた。それは心にあって表に表さない片恋の極みというもの

だろうか。寝ても覚めても、覚めても寝ても…(明治27年

         とても心乱れて書いて、まとまらずに終わった感じで難しかった。

 

 人の体を病の入れ物というが、何かに触れたらすぐにひびが入る精神は何と呼べば

いいのだろう

 

 陛下が上野へ行幸される道筋の広小路は拝もうとする人の山を築き、帽子を取るもの

襟巻をはずして投げるもの、田舎爺は額に手を合わせて…(明治28年

 

 今年の春の風はゆるやかに吹いて、上野飛鳥もあわただしく花盛りが過ぎた。小金井

の便り

 花もひと時、上野飛鳥は一夜の風に木の本の雪(散った桜)をかえりみる人もなくな

った。小金井からの便りもいつとはなしに過ぎて、五月初めの頃に盛りを誇っているの

は近所の護国寺の山桜。大きな花弁が朝露を帯びた風情、折しも木の下のつつじが紅の

色を添えているのに訪れる人が少ないので、なんとなく俗世から離れた気がする。

(明治29)