馬場孤蝶「明治の東京」

 

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                           我が家にやっと春が来た。 

 

                  三

 龍岡町の南端、牛肉屋豊国の前に当る、大学の長屋の角の大きい欅の柱に刀でさんざ

んに切り込んだあとが遺っていた。俗には、それを化物柱だといい、それが夜なかには

化物に見えるので、通りがかりの侍が引き抜いて切りつけるので、あんな跡が遺ってお

るのだといい伝えていた。しかし、あれは、酔った侍などが大諸侯に対する反抗心など

もあり、要するに、悪戯心もあり、すっぱ抜いて切りつけたにすぎないものであろう。

 あれから南の左側、今本郷区役所になっておるところまでは、麟祥院を俗にからたち

寺といっていた。この寺は春日局の菩提所なんだそうだが、昔は、切り通しの通りへ

もっと境内が出ていたのだ。明治24、5年ごろには道を広げるために、寺の地面を切り

取ったので、寺の塀際にあった欅とか樫などのような巨幹の老樹が路端に遺って、その

陰には町屋が建った。大きな根張りの木の下小暗きまでに茂った樹の陰に、鮨屋などの

暖簾が見えるというようなのは、なかなか面白い風情であったのだが、そういう老樹も

いつの間に伐り倒されて有りふれた電車路になってしまった。

 『夕じおの切り通し坂をわれ行けばあらあらと車飛ぶなり。これは近きころできたる

ばかな会といえるの詠草なりとぞ』

 そんなような意味のことを、斎藤緑雨が随筆のなかへ書いたのは、明治30年ごろなの

だから、まだ老樹が路端にあった時分のことである。今は、吉原通いも電車か、自動車

になってしまったので、朦朧車夫の駆けながら出す『あらよ』の掛け声も聞かれなくな

ったであろう。

 本郷3丁目から切り通しへ向かう街は北側は昔は狸俗盲長屋といった本富士町で

あり、南側は春木町であるが、その春木町は、二三度焼けたと思う。中央会堂の焼け

残りの煉瓦の壁のところへ、夜半の月がかかっているのを、廃墟の月というような気が

して、風情ある眺めだと見て過ぎたことを覚えている。明治十五六年ごろには、中央

会堂の横手の横町を入ったところに大弓場があって、そこではのちに一つ橋の高商の

弓の教師になった久保田藤信(当時は金作)氏などと落ち合ったことを記憶する。

その大弓場の主の高木清吉というのはそのあと下谷区西町へ移って、射場を開いてい

て、明治二十一二年ごろ、そこで画家村田丹陵氏や、今、日本銀行の理事をしている

河田敬三氏などと一二度一緒に弓を射たことがあった。何しろ、大弓場といえば家とも

に長さ178件に幅二間ぐらいは要したのであって、当時では、それだけの地面をば、

そんなに場末でない部分において、大弓場というような収入の少ない商売に使ったので

あるから、その時代の一般の経済状態もたいてい推定できるであろう。 

 本郷座は春木座といった。僕などはどうも今でもツイ昔の名をいっていかぬ。もう

七八年ほど前、ある席でツイ春木座といってしまうと、座にいた下谷の老妓にこれは

嬉しいといってひどくほめられた。その春木座も震災までに二度ぐらいは焼けたろうか

と思う。昔は大劇場のうちに入っていたらしいのだが、中ごろ衰えていて、大阪から

明治十六七年ごろ鳥熊という興行師が芝鶴、鯉之丞などという役者の一座を連れて来て

大入場を広くし、弁当をひどく安くし、その上に、雨天の日など、客が帰るまでに、客

の穿き物を洗って置くというような新興行法でもって、ひどい当たりを取った。この

興行法は東京の大劇場へまで影響を及ぼして、それ以後は何処でも大入場を取り広げた

ようであった。

 明治十二三年ごろは医科即ち当時は医学部といっていたのがあったばかりで、此の旧

加賀邸の赤門寄りの方は、茫々たる薄原で、その草の間に、昔の井戸の跡なのであろう

が、黒く塗った木を枠にして、危険除けの目印にしてあるのが幾つとなく見えるのが、

ひどく寂しく感ぜられた。門を入って右手寄りには、椿の一杯生えた円形の小山があっ

て、冬になると、よく鳩がかしわの腹を木の間から見せた。其処は、加賀騒動のなかの

浅尾という悪女中を蛇責にして埋めたところだという俗伝があった。けれども、それは

古墳の跡らしかった。十七八年ごろ発掘したが、石垣のようなものがあったのみで、別

に何も出て来なかった。どうもその昔一度発掘したことがあるらしいという鑑定であっ

たとか聞いた。

 その時分には、その草原には狐が大分いた。夕方など、尾を長く引いた褐色の子犬

ぐらいの獣が、後を見返り見返り草の中へのろのろと逃げ込んでいくのをよく見かけた

ものだ。雪の降る前の夜などで、ギャア_ギャアという嫌な不吉なような声を聞いた。

狐はコンコンと鳴くとは聞いていたのだが僕の聞いた狐の声は何時もそのギャア_ギャ

アばかりであった。ツイこのごろ読んだある書には雄狐はコンコンと鳴き、雌狐はギャ

ア_ギャアと鳴くと書いてあった。それが本当ならば僕は雌狐の声ばかり聞いたわけに

なるのだが、何んなものであろうか。

 永井荷風君の小説の中には、君のお住居で狐狩をするところがあったと思う。確か

そのお屋敷は小石川水道町であったろうと思う。昔は少し広い屋敷などには狐などが

何処にもいたらしいのだ。今は郊外でさえ実際狐のいるお稲荷さんはめったにないで

あろう。

 大学構内には池寄の方に雑木や藪などのある小さい小山があった。上り路が迂回して

ついているので、栄螺山と呼ばれていた。その頂からは、小石川の砲兵工廠の裏手あた

りは勿論のこと、神田、日本橋へかけての下町が、随分遠くまで見渡せるのであった

が、その時分には、下町の方面でも東神田から、浜町辺にかけては樹木のあるところが

余ほど多かった。家の屋根と、そういう樹木が錯綜しているところが実に心持のいい

眺めであった。

 震災までは、浜町あたりにはまだ大きい庭のある屋敷が遺っていた。俗に細川邸と

いっていた大川端の長岡護美子爵の塀際の樫の樹のことは荷風君も何かで書いておいで

なんだが、あの外にも、よほど高い築山が青々と塀の上から見えている屋敷が水天宮の

裏手あたりにあった。箱崎の土州候の屋敷も庭が幾分は残っていたろうと思う。そんな

のが皆、諸所にあった緑樹とともにあの業火のために無残に一掃されてしまったのだか

ら、返らぬこととは知りながら、いかにも惜しいという一言は口から洩らさずにはいら

れない。

 筆はここで一転するわけになるが、僕の少年時分には、大学の赤門前などは、まるで

田舎だった。確かに兼安までは江戸のうちで、それから先はどうしても宿場といわなけ

ればならなかった。縄暖簾の居酒屋あり、車大工の店あり、小宿屋ありという風で、

その前をば、汚さを極めた幌かけの危なげな車体をば痩せ馬に輓かせたいわゆる円太郎

馬車がガラッ駆けを追って通るのだから、今の大抵の田舎町よりもなお田舎びている

くらいであった。

 西片町の台_そこも茶畑であった_から眺めると、白山下のところはずっと水田で

あって、畦間のはしばみなどの雑木のひょろひょろと立っている景色が、夕方などは

何ともいえずもの寂しく見えた。それらの田の埋立てられた跡が、今の指ヶ谷町の芸者

町から南へかけての街区である。

   

   変わりゆく東京

 

 誰でも、春よりは秋の方が心持がいいと思うであろうが、私どもは近来、殊に、秋の

方が心持がいいように思われ出した。

 誰に聞いて見ても、東京の春が近頃は寒くなった様にいう。此の頃では私共は春、袷

を着る間がひどく短くなった様に、思うのであるが、それは残念ながら、年のせいかと

も思うけれども、どうもそれ許りではない様にも思われる。私共は、五月位までは、

どうしても綿入で居る。で、袷とシャツと袷羽織になったかと思うと、殆ど一っ飛びに

単衣になってしまう様な気がする。あまり品のいいものではないが、素袷で居るという

のは、一寸心持のいいものだ。近頃では、私共は、決して素袷では居られない。町を

歩いてみても、一般に、素袷で居る人を余り見かけない様な気がする。

 一つは風俗の変化でもあるのだろう。即ち誰でも服装をちゃんと整えるという風に

なっているので、素袷で飛び出すという様な人が余り無くなったのであろうが、然し

一方では、気候の具合が近来違ってきたのが一つの原因であろうと思われる。

 そうして見ると、私共の様な冬の嫌いな寒がりとなると、春がそれほど有難くない訳

になる。却って夏の暑さから逃れて秋に入っていく方が心持がいい。

 自然の景色などは、秋になると、グッと落着いて、いかにも冴えた静かな心持を人に

印象することは今更いうまでもないが、今頃になると、東京近所の川筋の景色が何時も

思い出される。其処の景色を特徴づけるものはあの白いすすきである。川の堤や、洲に

茂っているすすきの白い穂と、枯れた茎や葉の取合わせがひどくいい心持ちに思われ

る。場所をあげれば、千住の大橋の上あたり、六郷の川下などの景色がそれである。

陽のよく照る日に、川の堤に立って居ると、青野すすきの間から、和船の帆が静かに

ゆるゆると出て来るのなどは、如何にも我々のハートに、深く根ざしている心持よい

景色である。

                   二

 東京では此の頃は一帯に空地が少くなっている。二十年も前までは、牛込、小石川

などでも、商業中心になっている部分を少し離れると、一寸した家には、七八坪の庭は

附いていたものであるが、今は余程場末にでも寄らなければ、庭というべき様な空地の

ついている家は余り無い様である。

 しかし、東京の空地が少くなり、木立なども段々無くなって行った訳であるが、何

しろ、幾つもの村落、幾つもの小さい町が、互に発展し合って連なりあった東京の事で

あるから、全般的に言えば、未だ中々空地はある。

 私の知人で知名のある文学者は、二三代前からの所謂江戸っ子であるのだが、その人

が嘗つて京都の高等学校へ勤める事になって一年ほど行って居た。

 で、ある年の暮に東京へ帰って来て、正月になって私と一緒に電車に乗って、牛込の

田町辺りから、お茶の水まで行った。その間もしきりに窓から外の景色を眺めて居た

が、お茶の水で降りて、橋を渡りかけると、その友人は、微笑を含んだ低い声で、

『東京の景色は雄大だねえ。』と言った。で、私も笑いだして、

『西洋まで行った君が東京の景色を雄大だなんていうようじゃ、よくよく京都には閉口

した様だね。』と答えた事がある。

 確に東京の景色は雄大だ。私は今市ヶ谷の本村町に居るが、市ヶ谷の外濠の景色は私

にとっては何時も心持がいい。市ヶ谷見附、新見附などから見ると、今頃は高台や濠内

の樹の色などが、黄色に色づいていて、如何にも秋らしい落着いた眺めである。

 勿論、人口的の景色には相違ないが、始めは人の手で樹を植え、堤を築き、濠を掘っ

たのであっても、それを自然の懐に任せて少し長く放っておけば、自然はこれを取り

上げて何等かの景色にして呉れるのだ。

 東京の町へ殆ど禁固されている様な我々にとっては、そういうような自然の景色の中

でも、自由にさ迷うことが何十分か出来る場合には非常な慰謝になると思う。

 私は一体ブラブラ歩くことが好きなのだから、時々用達の帰りに、神田から九段を

上り、市ヶ谷見附へ出て帰る事がある。その節もある若い人と一緒に、市ヶ谷見附へ

出て来て、濠端の樹の景色などを心持よく眺め、それから、家の近くまで来ると、

ふと、家の廻りを大変心持のいい処だと思った。

 尤も、その日は前から雨が降って居たが、その朝から雨が上って、段々天気は持ち

なおして来て、稍々晴れかかっている午後の二時過ぎ、という頃であったので、急に

そんな感じがしたのでもあろうかと思う。

                  三

 東京の町は、どこでも大抵市区改正で広くなって居るので、昔の町の形が残っている

処は、まことに少いのであるが、それでもまだ秋には時々昔ながらの町へふと足を踏み

込む事がある。

 処で、そういう町は非常に狭い様に思う。そういう町を目ざして行く場合は、余程

気をつけて居ないと、ついその曲がり角を通り越して了う事もある位である。

 そういう町の代表的なものを、今一つ挙げて見ると、本郷の松屋の横から台町へ出る

横町であるが、あの横町は、突き当って、左へ少し曲って、それから台町の方へ真直に

行く様になって居る。あの横町などは或は明治になって出来た横町かも知れないが、

私共にとっては、もう四十年ほどの馴染の横町である。然し住んでいる人の様子は、

ずっと昔よりも生活程度が何んとなく高くなって居る様に思われる。

 勿論、私共の子供の時分に比較すると、家も、建て変ったのが、大分ある様ではある

が、それにしても、其処へ入る私の胸に昔の記憶を喚び起す丈の雰囲気は残っている様

な気はする。

 けれども、今いう通り何処も彼処も変って了った事は確である。あれが本郷通の五丁

目だと覚えているが、大学の赤門前を一寸入った処に、狸俗附木店というのがある。

それは昔組屋敷であったというのだが、久米正雄君の家は今其処にある。久米君の家は

昔からの家である。久米君の叔父さんに助三郎という人があって、私と竹馬の友なので

時々会う事はあるんだが、今年の春であったか、助三郎君は正雄君の家へ訪ねて行った

事がある。が、あの辺も昔は何の家も大抵は垣で囲まれて居て、玄関と門との間に、

空地があったのであるが、今は何の家も、殆ど直ぐ家の入口になって居る。助三郎君

と、「如何も此の道が我々の子供の時分から見ると、大分狭くなった様に思われるのだ

が、実際は外の町が広くなったので、其処を殊に狭い様に覚えるのであろう」と言って

笑った事がある。