馬場孤蝶「明治の東京」

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                            かなり華々しいお花見。

 

                   四

 私は勿論江戸っ子ではない。生れは地方であって、東京へ出て来たのは十歳の時で

ある。だから江戸とか東京とかの旧い事などは直接余り知らない。けれども伝聞した事

は可成あるので、時たまには、そんな事を書きもする。それが為でもあろうが、時々

江戸趣味とはどんなものかと若い人々から聞かれる事がある。

 私は、所謂江戸趣味などは、次第に亡び行くであろうと答えるより他は無い。前に

言った通り、昔は、狭い町で、人通りもあまりなく、如何にも、ゆったりした気分で

住み得られたのであるが、今は、そんな所でも、電車の音の聞えない処は滅多にない。

外へ出ればゆっくり歩いては居られないのだから、人と押し合いをして、電車に乗らな

ければならない。そうすると、どうしても、人々の気分が変って来ると思う。それか

ら、家で使う種々な器物の工合でも、非常に変って来て居る。最も著しいのは、瀬戸物

の模様である。純日本式の模様の瀬戸物を買うには、よほど選択しなければならない程

である。

 してみると、江戸趣味で行こうというには、その人が、毎日外に勤めに出る必要も

なく、又買物でも値に構わず、気に入ったものを買うという事の出来る位置に居なけれ

ばならないので、一言にしてこれを言えば、江戸趣味はひどく贅沢なものになって行く

のである。そうすると、何うしても一般人はやろうと思ってもやれない事になるのだか

ら、勢い、そういう趣味は人の心から段々無くなって行くものと言わなければならな

い。

 言葉なども随分変って来て居ると思う。昔の様にひどく遠回しな言い方などは、今の

人にはまだるっこい事になろうと思う。敬語の数なども昔より段々少くなって行く事で

あろう。我々の生活が我々の心理状態に種々の変化を及ぼし、これが為に又言葉にも

変化を及ぼし、又変化を受けた言葉は却って我々の少なくとも気分を変えてゆくという

風で、そういう変化は相作用して、段々我々の思想までも変って行く事となるであろ

う。凡てのもの、凡ての事に亘って、それが変化していくことはどうも止むを得ない。

只我々はよき方へ変化して行く事を望むだけである。一時は悪い方へ進む様に見えて

も、結局に於てよき事に達するのであったろう、その途中の不便不快は忍ばねばなら

ぬ。

 

   変わり行く東京語

                   一

 出版物の多くなって来たことと、それ等の出版物が大抵皆言文一致_すなわち大体

東京語で書かれていることが、東京語をば地方の僻陬(僻地)まで弘布す(広め)る

ことになりつつあるには相違なかろうが、口語の上では、東京語と地方語との差異は

まだなかなか甚だしいように見受けられる。そういう点では関東語と関西語だけの差異

にしても随分甚だしいものがあると思う。

 けれども昔_徳川時代_は、少くとも江戸の上流_即ち士分の言葉は、もともと大体

京都の上流語に標準を取ったものであったのであろうから、地方の藩庁の公式の言葉と

は余程共通なるところがあり、少くとも名詞、動詞などで、公用語以外にも、同一な

ものを用いていたことが少くなかったように考えられる。

 僕の生国は土佐であるが、麻裏草履のことを藤くらといっているのを、少年の時分

聞いたことがある。東京ではその時分_明治十一二年頃_でも、もう藤くらという語は

なくなっていたのだが、明治二十年頃東京生れの或る老人と話しているうちに、その

老人などは藤くらという語を昔は使っていたことが分った。

 土佐では、嘲弄的に意地悪く人に言いかけるのを、きょくるという。僕の父母などが

その言葉を用いるのを聞いて、僕は地方語だと思っていた。所が『柳樽』(川柳集)を

見ると、『ご立腹などと内儀をきょくるなり』

 というような句があるのを以て見れば、きょくるが地方語でないことは明かである。

 義太夫の『泉三郎館』の五斗の生酔いの唄の中の「けなりかろ」が僕には解らなかっ

たが、紀州生れの中村啓次郎君が、それは紀州あたりでは今日も用いる語で、羨ましか

ろうの意味なんだと説明してくれた。ところが熊谷辺から、茨城の利根川沿いの地方へ

かけてのあたりでは、今日でも羨ましいというところをけなりいと云うのだということ

を、近頃になって聞いた。

 引窓のことを大阪あたりでは天窓というのだと聞いたが、濡髪の長五郎の義太夫

『引窓の段』であって、天窓の段とは言わない。昔は引窓が東西の共通語であったもの

と見て宜しかろうと思う。

 本を押入れから出して実例を挙げるのは億劫だが、口語に近いものと見てよかろうと

思う。小唄などに拠るときは、東西の言葉_少くとも双方の都会での言葉_が可なり

共通の分子を持って居ったことは窺い得られるだろう。

 京都の言葉では_殊に大阪の言葉などは_今日までには、在方の言葉が入って、余程

乱されたのであろうと思われる。東京の言葉も勿論そうである。殊に明治になっては、

東京従来の上流社会は全滅してしまったと云っていい位であるのだから、それ等の社会

の伝統ある言葉は消滅し去って、今日の東京語は主に商人、職人の言葉のみが残った訳

であり、それへ持って来て、次第に、地方語からの侵略が加わっていくという現状で

ある。

 今日の東京の所謂身分のいい人々というのは、大抵地方の身分の余りよくなかった

人々の末であるのだから、その言葉の如きも、従来の標準語の規模から云えば決して

いいものとは云えないであろう。それ等の人々の子弟で今日物を書く人々の言葉の、

従来の日本語の格から云えば、甚だ拙いものであるのは、その父兄たちに言葉の訓練が

欠けていた為であろうと思う。

                   二

 しかし、言葉は死物であってはならず、必要な変更は進歩の根底になる訳であるのだ

から、変遷そのものを拒斥すべきでないことは勿論である。唯吾々の注意すべきこと

は、吾々物書くともがらが、言葉に不必要な変更を加えて、意義なく従来の言葉を乱す

ようなことをせぬように心することである。

 したがって、言葉の誤用などは十分に注意して避けなければならんと思う。

 小児の戯れにいいたちこつこというのがある。これを相報いるの意味で、大人の用語

にすることは、誰も知っているところであるが、この語の末のこつこは総べて澄んで

発音すべきであって、決してごっこというが如く濁って発音すべきではないのだ。とこ

ろが、近頃の印刷物には、此の語がしばしばいたちごっこと印刷されて居るのを見かけ

る。甚だしきに至っては、鼬ごっこと書かれて居るのさえ見かける。

 僕らはあのいいたちこっこという発音のうちに、あの手を順々に互に抓りあう動作が

いかにもあざやかに表現されているように思うのだから、語源は鼬の動作から起った

ものにしたところで、これを鼬ごっこと訂正したくない。此の語を用いる位ならば、

矢張り小児の言葉通り、いいたちこっこをそのまま用いるのがいいと思うのだ。

 言語の知識が貧弱なので、確なことは云い得ないが、いいたちこっこには鼬ごっこ

即ち鼬の真似をして遊ぶとか、鼬のようなことをしあうとかいうような意味はないよう

に思われる。あの語は、小児が手をつねり合う調子をば音を以て表しただけのもので、

語自身には何の意味もないものであるように思う。

 ある行為をさんざんするという意味で、たらだらという語を用いる。即ち、お世辞

たらだらとか、愚痴たらだらとかいうのである。此の語は勿論たらと上を澄んで発音

し、下をだらと濁って発音するのだ。ところが此の頃の印刷物には上のたらをだらと

印刷してあるのを度々見受ける。尤もこの方は誤植の場合もあろうかとは思うものの、

同じ新聞などで、何時もたらだらがだらだらになっているのを見ると全く誤植とも断じ

兼る。そういうのなどは、地方の印刷物などでは、必ず誤植通り印刷することであろう

と思う。従って、地方で物書く人々は愚痴だらだらという語があると思って、平気でそ

れを用いることになる恐れは十分あろうかと思う。

 今日では語源はとにかく、このたらだらという語の音そのものに、くどく繰返すと

いったような意味が表されているように、吾々の耳には聞き取れるのであるから、これ

をだらだらと変えてしまっては、音から来る感じはまるで違うであろう。

 なんぼ地方の人でも今日では言葉の知識は可なり広くなっているであろうから、まさ

かにたらだらをだらだらと間違えるようなことはないであろうと、思う人は多かろう

けれども、実際はなかなかそう楽観を許さない。随分な間違いがそのまま伝わる恐れが

十分あるものと見るのが宜しいと思う。

 これは、それとは事かわっているが、ある地方新聞に源太郎場馬車という言葉があっ

た。どうも円太郎馬車の覚え違いらしいのだ。

   

   環状線を回る

                    一

 生方敏郎君が先達て来て、魚籃坂が変わっているので、場所が分らず、人に魚籃坂

何処だと聞くと、ここがそうなのだといわれたといって笑っていた。白金の明治学院

学んだ生方君はこの辺はよく知っているのに、その生方君にまるで分らなくなったのだ

から、その変遷の程度はそれだけでもう誰にも想像ができるであろう。

 十月のある日、秋晴れの快い午後、環状線回りを頼まれて、自動車で家を出た。魚籃

は元よりのこと、伊皿子(坂)だっても、吾々には、まるで外の場所のような気がする

までの変り方だ。街幅の広くなったのはいうまでもなく、坂の形がまるで昔の形を留め

ず、両側の家々が石段を上るようになっていたのさえ、全く跡方もなくなっている。 

 『横町に一つずつある芝の海』という川柳は芝ももっと北金杉あたりをいったもので

あろう。僕などの青年の時分には、車町から品川の停車場の間には海の側にはロクに

家がなかった。あの辺の埋め立てをしたのは、牧野如石という、烏金(高利)でも貸そ

うというような、したたか者の盲人であったというのだが、海寄りに十軒程を一棟に

した長屋建ての商家向の家が建って、ぽつんと一つ離れていてそれにはロクロク住む人

もなく、殆ど立ち腐れになっていたことを確に記憶する。山手の方にしても泉岳寺

から先は、低い混凝土の塀や石垣の邸宅が続き一歩裏へ入ると大抵の家は生垣で屋敷を

めぐらしているような淋しさであった。それが何時とはなしに、今のような、海沿、

山手共にあの通りの人家櫛比(櫛の歯のように隙間なく並んでいる)の現状だ。

 僕のこのあたりに関する記憶などは余りに古いのではあるが、それにしても、変り方

は実に驚くばかりの変り方に相違ない。

 停車場から二三町手前の右側(山手)に後藤象二郎画伯の屋敷があったことを覚えて

いるが、明治二十一二年頃に、条約改正その他所謂三大建白(騒動)のために上京した

地方有志が後藤邸を訪うた時、後藤家では盛り蕎麦を饗したが、有志の多くは盛りの上

からいきなり、汁をぶっかけてしまったという、落し噺そのままの話を聞いたことが

ある(貢太郎)君の『旋風時代』が、もっとずっと時代が進むと、そんなことも小材料

の一つになるであろうなど、心の中で微笑みながら、彼れ此れと古いことどもを憶い

出しているうちに、車は容赦なく、少し肌に冷たい風を切って、停車場の少し先きの

橋際から、右へ折れて、八つ山を上り始める。

 いよいよ環状線へ一歩踏み込んだ訳だ。此処には勿論昔は路がなかった。多分森ヶ崎

とか云ったのであろう。長州候の屋敷のなかを新たに切り開いた坂路である。勿論、

まだ出来たての路と云っていいくらいの新開の路面なのだから、坦々(平ら)として、

まるで何かで拭き取ったかのような綺麗さ滑らかさである。このあたり、一帯に大藩侯

の屋敷の多いところであって、袖ヶ崎の薩州邸、大崎の池田(備前)邸の大邸が名高か

った。そんな大邸となると、大厦(ビル)の戸を開けるのに専任の係があって、一人で

朝からつぎつぎに戸を繰り開けて行くと、最後の戸を開けた時分にはもう夕暮れになっ

ていて、今度は最初の戸をしめ始めなければならないようになっているくらいであった

と云い伝えられて居る。

 そんな大邸宅の建った時分から可なり長い後まで、猿町の坂を下りると早や直ぐに、

一面の稲田であって、秋ならば黄金色の波満々と風に揺れるという光景であったのだ

が、それから後、田が埋められてからも、しばらくは、埋立地らしい赤土の広々とした

空地を後にして、棟割の長屋が路に沿うて、気のなさそうな風で立っているのを見たの

は、まるで昨日のような気がするくらいである。

 そんなことを憶い出づると、ここらの街景は全く大変遷の感がある。 

                  二

 大崎から五反田へ向う街路は可なりな商店街をなしている。家々の規模は、相応な

地方市の可なりいい街筋のありさまと同様である。いや、それどころか、三十年位前の

本郷通りなどよりは、余程景気のいい街の光景である。

 五反田の記憶は割合に新しく、震災二年前ぐらいに属するのだが、その時に比べて

さえ、開け方は雲泥の違いだ。これでは地方市の盛り場を凌いでいる。いや、此の二十

年前であったら、これだけの街がかりの賑かさの場所は、東京でもそう多くはなかった

ろうと思うくらいである。もちろん、新開という何処となく垢抜けのしていない雰囲気

は濃厚であるが、旧市内だっても例せば小石川の柳町、本郷の肴町、動坂下、下谷

鶯谷などのような吾々の眼から見れば新開の空気の可なり顕然(明らか)とした地区が

少なくない。いや、数え立てれば、そういう新開は旧市内には枚挙(数え上げる)に

いとまのない程多いのだ。旧市内のそういう土地の方が開け方は遅々としていたといっ

てよかろうと思う。

 ここで、道路は少し大回りの形になって、目黒川を渡って、目黒から渋谷へと亘る

郊外の旧市外郭をなしていた部分の外輪をめぐることとなる。この川の末が品川へ入っ

て、本宿と橋向うとを別つのでもあろうかと思い、斎藤緑雨に橋向うの意味の説明を

受けたことなどを憶い出でて、心に微笑を覚えたのであった。しかし、後で考えると

品川の橋はこの末ではなさそうである。

 僕の昔の記憶によると、下渋谷から上目黒を経て、行人坂あたりまで出て来る路は、

旧市寄りの丘陵を左にし、郊外の渋谷から続いている小丘を右にした谷あいのような

ところであったと思うのであるが、今の環状線からは右に松林を頂いた丘陵の連亘(連

なり)を見るのみで、左の方には余り高いところを一向に見ない。要するに、下渋谷

から来ている丘地の西側即ち外回りの平地のところを環状線が貫いているのだ。

 不動堂へ入る横町を左手に見て、行人坂下あたりを越えるというと、もう商舗はぼつ

ぼつになって、郊外の屋敷町らしい気分が顕著になる、右は平地が少し連なってから、

その上が南北に亘る低丘になって居り、左は極緩やかな傾斜をなして、武蔵野の外郭的

高地へと上って居る。我等の行く手は先ず大体坦々たる平路であって、前面の空の藍色

広々と仰がれて、好晴の秋日和の気分はいかにもさわやかに快かった。

 この路は下、中、上と目黒をば目黒川の西岸に沿うて貫きつつ渋谷へ向って居るの

だ。やがて、路は爪先上りになって、道玄坂の上の方で、厚木大山街道へと出てしま

う。世田谷へと通じて居る昔からの往還なのだ。

 いわゆる道玄坂から、宮益坂へかけてのこのあたり一帯の変り方は、吾々に取って

は、全く桑滄の変(移り変わりが激しい)もただならぬ心持がする。日露戦役の直前

ぐらいまでは、宮益が五六間にしきゃ見えないくらいの路幅の、両側には生垣のある

屋敷に沿うての狭いやや急な坂道であり、道玄坂までの間は両側が田圃であり、世田谷

街道に食物店といっては、坂を可なり上ったところに、一軒蕎麦屋があるきりであり、

丘沿いに停車場の方へ曲がっていく横町には、それでも一寸した料理の看板をかけた

家があるきりというありさまであった。明治四十一二年になってさえ、市内の寄席で、

咄家が『この頃は上渋谷の道玄坂などが開けて、あの辺でも変り色の羽織を着た芸者が

歩いているというのだから、東京も大変な変り方だ』などと、話の前置にして話した

くらいであった。

 大震災の恩沢に浴した土地の一つには相違ないが、それにしても、驚嘆に値する開け

方だと思う。ここを起点にする電車線が二三線ある通り、懐は十分広い地区である。

まだ今後の開け行く余地はあるであろう。