馬場孤蝶「文化の変遷と寄席の今昔」

        海が見たいがために五浦へ行って思いがけず岡倉天心の勉強をした。    

     

     寄席対小劇場

 僕等の少年の時分には、寄席は平民娯楽場の中心であったのだが、現今では、そうで

はなくなってしまった。

 昔でも、寄席以外に娯楽場の種類が幾つか在ったには在った。が、その一つは各所に

あった小劇場である。近頃まで在った中洲の真砂座とか赤坂演技座とかいうのも、小劇

場には相違なかったのであるが、僕のいう昔の小劇場なるものは、もっとずっと小さ

い、全くの平民的劇場であったのだ。僕の知って居る限りで云えば芝の森元座、二長町

に在った何んとかいう座と、向柳原の開盛座などが盛な方であり、もっと小さいので

は、赤城下に殆ど列んでいる位の近い位置に全くの小芝居が二軒あった。僕はその時分

は、弁天町に住って居た親類の老人のところへ漢文を習いに本郷から毎日通っていたの

で、その小芝居の前を通って『八陣守護城』とか『二十四孝』とかいうような、悪どい

程色彩の濃い絵看板を見かけたことがある。

 けれども、そういう小芝居の客はずっと俗な連中_重に女、子供と云ってもよかった

ろう_であったので、寄席_小さくとも中流以上の_がそういう小芝居に影響されると

いうことはなかった。

 中等どころの劇場が大入場を拡げだしたのも、二十二三年以後のことである。当時の

春木座_今の本郷座_の前身で、大阪の鳥熊と称する男が、可なり安い芝居を興行しだ

した。役者は芝鶴、鯉之丞、勘五郎などというのが重立った役者であった。けれども、

極めて変っていたのは看客待遇法であった。鳥熊は先ず大入場を思い切って広くした。

それから、面白いことには客の下駄の掃除をした。

 即ち、雨天の日など、泥まぶれになっている下駄の歯をば、下足の方で、客の帰る迄

に、すっかり綺麗に洗って置くのであった。

 そういう興行法が大いに当って、毎日大入をしめた。何しろ、その時分、春木座を

一日見物するには、何うしても一円以上はかかったのであるが、二十銭もかからぬ位で

見られるのであったから、あの近傍の人に取っては一種福音の観があった。

 が、それでも、それが為めに、若竹あたりは、そう大して打撃を受けたことはなかっ

たろうと思われる。

 そういう小芝居もしくは中芝居へ行く客は、濃厚な娯楽を求める連中であって、もっ

とあっさりした、軽い気の利いた寄席の芸を賞玩する連中とは、少し種類を異にして

いたと思う。それに芝居の方だというと、時間などの関係もあって、そう誰でも行くと

いう訳にはいかなかったのである。

 それから芝居の方は何分時間が長いのであるから、弁当がいるとか何んとかいうこと

になって、寄席より少しは費用を要したようにも思われる。要するに、芝居の方は、

何んとなく出入が億劫であるように大抵の人に感ぜられていたのである。

 夜間、即ち、大抵の人がもっともひまになる時間に於て、手軽な娯楽の場所と云って

は、寄席より外にないと言い得る時代であったのだ。

 先ずそういうような点でも、昔の寄席は、他の娯楽機関に対し、競争を容(ゆる)さ

ぬような優越な地位を占めていた。これが、当時の寄席が大抵何処も繁昌した一理由で

あった。

     昔の寄席には権威があった

 その時代に於ては、人々の知識の程度、趣味の程度が、大凡平均していたように思

う。

 その時代には、東京の人口が今日程多くなかったことは勿論であるが、それは、地方

人は今日程多くなかったという意味になる。即ち、その時分は東京が今日のように地方

人に征服されていなかった時代であったのだ。それ故に、その時分では、地方人は、

直きに東京人の感化を受けて、可なり急速度に東京人に近づいて行くのであった。思う

に、その時分東京へ出た地方人は重に知識階級であったので、その趣味においても、

東京人とそう甚だしく違ってはいなかったのであろう。そういう風で寄席などの芸は、

東京趣味、東京人的知識に訴えるものでありさえすれば宜しかったのである。

 芸人の方からは、解らないところがあれば、それは客の方が悪いのだからという考え

でやって差し支えがなかった。謂わば芸人の方に権威があったのである。

 又客の方から云えば奇抜だとか斬新とかいうものを、只管(ひたすら)に求めるとい

うまでに、それまで在った物に不満足は感じていないし、又何んでも新しい物を要求す

るというような向上的憧憬は持っていたのではなかったのだから、自分たちの持ってい

るだけの知識、趣味に合致するものであれば、満足するのであった。言葉を換えて云え

ば、当時の客は一種のエキスペクションを持って、芸を見、そのエキスペクションに合

致するものであれば、それでもう十分満足するのであった。勿論、芸に対して、看客の

方で或る固定したエキスペクションを持って臨むということは何時の時代でもあること

であるのだが、演ぜられる芸とそのエキスペクションが合致するかしないかで、問題が

いろいろになるのである。

 寄席で演ぜられる芸のうちでは、云うまでもなく落語が重なものであるのだから先ず

落語に就て云うことにするが、当時の聴客には落語は全体としてよく理解されたので

ある。落語が大成されたのは、明治十四五年頃から見て、そう古いことではなかった。

その時分を去ること精々で三十年位前といって間違いは無かったろう。いや、実際は

もっと近かったかも知れぬし、話によっては、慶応年間若しくは明治の初め位に作られ

たものも、幾つかあったかも知れないのだ。いやそれどころではなく、円遊の話の如き

その時分出来上がりつつあったものさえあった位である。そういう訳で、落語の中に出

て来る人物の身分とか気質というものは、噺家なり、客なりが実見したものではないに

しても、大体想像だけはつく位、落語が作られた時代と明治十四五年頃_或は二十年頃

でも_とは接近していたのである。いや、時としては、落語の中に出て来る商家の旦那

とか、若旦那とか、権助とか、おさんどんとかいうような人物の気質を、多分に具備

した実際の人物を見ることさえあった時代であった。

 だから、そういう方面だけで云えば、少くとも明治二十年位までにあっては、落語は

大部分時代の風俗の写実であったと見られぬこともないのある。

 それから侍などに就ても、侍という生活を実際やった人々が、可なり多く生存して

居た時代であったことは勿論である上に、極く若かった吾々さえもが、その侍であった

人々の子、即ち、そういう侍であった人々の直ぐ次のゼネレエションであったのだ。

それで、所謂侍なるものに対しても、吾々は相当の理解や、想像を持つことができ、

従って余程の親しみを持つことができたのであった。

 そのほか、家屋の具合でも、衣服道具などに至っても、封建時代のものと、そう大し

た違いはなかったのである。いや、前時代の典型的な住家的建物の残っているものさえ

少くなかったのである。日常は用いなくなっていた物でさえ、その物だけは吾々の眼に

触れることが珍しくはなかった。たとえば日本馬具だとか、行燈だとかいうようなもの

の如きは、実際用いているのを見掛けることさえあった位であるのだから、唯の古道具

として見かけることなどは、全く屡々(しばしば)の事であったのである。その他の

風俗習慣の如きも、消え去ったものでさえ、大抵は何んらかの痕をまだ残していたので

ある。

 要するに、吾々の青年時代にあっては、落語の材料は今日のように既に死んだもの

若しくは死にかかっていたものではなくして、十分に生きているもの、若しくは可なり

に息の通っているものであったのだ。

 落語家自身の方から見ても、話そのものの雰囲気なるものは、個人として落語家その

人を取り巻いていた雰囲気とそう甚しき相違はなかった。即ち、彼らは、話の中でのみ

自分の生きている時代とは全く違った時代、自分の接触しているのとは全く異った世界

へ入って行かなければならんというのではなかったし、又自分等が実見しているのとは

全く異った種類の人間にならなければならんというのではなかったのである。謂わば、

落語家は地のままで芸を演じられるという傾きであったのだ。

 そういう風で、芸人と客との間で知識趣味の範囲が、大凡極っていたのであって客の

エキスペトクしているところへ、芸人の芸が一々嵌まって行き得る訳であったのだか

ら、芸人の方も芸がしよいのであった。即ち芸人が自信を以て芸を演じ得られたのであ

って、客の方も、安心して、心持好く芸を鑑賞し、享楽することができるのであった。

 寄席芸人を芸術家という風に尊敬するという時代では勿論なかったし、芸人自身も

人間としてはそう大したプライドを持っていたのではなかったが、実際上当時の寄席

芸人は卑俗な下等な人間として客から見られていたのではない。即ち、客が心の底から

そう軽侮しているのではなかった。客から見て全然賤しいおもちゃというのでもなかっ

た。口では成程寄席芸人とか、鹿とかいうような風に、軽侮的な言葉で以て呼ばれて

いたのであるが、客の心の上で芸人の占めていた位地は決してそうまで賤しいものでは

なかったのである。

 少くとも、滑稽とか、頓智とかいうような領域に於ては、彼らが一種のオラクル(神

託)であった。客はそういう点では、確に芸人から教えられるところが多かった。彼等

にはそういう点で権威があり、客も冥々のうちにそういう点に対し一種の尊敬を以て

彼等を待ったのである。

 当時の寄席で演ぜられた芸は、殊に落語は、内容的に云って、当時の東京趣味を具体

化したものであり、且つ前に云った通りの客の性質であったので、当時の落語は東京

趣味の具体化であり得たのである。

 当時の落語家は、自分等のハアトに何等の親近性を持っていないことをば、唯仕来り

(しきたり)通りにしゃべるというような鸚鵡芸人ではなかったのである。又、そうで

なくて済み得たという有利な位地にあったのである。

 大凡これで察せられるであろうが、当時の寄席の社会上の位地は高かったといって

宜しかろう。前代の越路などは東京では寄席を打ち回ったものであった。

 以上に説明した点が、昔の寄席の盛であった第二の理由であると思うのである。