近世風俗雑談 馬場孤蝶

 思っていたよりつまらなかった。大分お年を召してからの回想記のようで、であった

かと思う、ばかりだし、自分で言うように無粋なので内容が少ない…

 

     明治から大正へかけての話

 風俗と云えば主として、服装、髪の形、履物等のことを、いうべきなのであろうが、

何分家に引き込みがちであったし、また外出しても古本を探すというようなことにのみ

気を取られていたので、いわゆる風俗の変遷などにはほとんど気がつかずにしまった。

 それで今大体のところを思い出してみようとするのだが、どうも甚だ朧気で、十分

なことを書けないのはまことに残念である。

 我々にでも第一番に気のつくのは、現代_大正になってから_では、洋装が殆ど一般

的といい得られる位に波及したことである。それから、その次ぎには洋風の建築が非常

に多くなって来たことである。第三には、巻煙草の使用の範囲の広くなったことであ

る。それから、第四には西洋料理_カフェ、バー、食堂の流行が全く常態として定まっ

てしまったことである。

 明治十四五年頃から以降のことでもなければ余り善く覚えていないのだが、その時分

から明治二十四五年頃までは、何んといっても洋装は余程少かった。官吏とか、教師と

か、大きい会社に勤めているというような一部の人々に限られていて、それも役所や、

会社へ出る時とか旅行の場合などに重に着用したもので、家居の場合は勿論のこと知人

訪問とか、散歩とかいう場合には、何時も和服であったといっていいくらいであった。

 民間の儀式の場合_婚礼とか、葬式_などにも大体の人々は羽織、袴であった。この

時代では_殊にこの時代の初期では_洋食の宴会というのは少かったので、そういう

和食の宴会へ出席するには、大体日本服であったろうと思う。この時代では、大きい

宴会は大抵柳橋あたりで行われたようであった。吾々は柳光亭の名などをしばしば耳に

したことがある。両国の中村楼が流行の高等旗亭であったことは、少し前のことであっ

たろう。この時代では、新橋に大旗亭はなかったように思う。尤も、築地の寿美屋と

か、花屋とかいうのが、此の時代の末期にはもうできていたかも知れぬのだが、それに

しても、その二軒は家の広さでは大旗亭とはいえなかったろうかと思われる。

 この時代の背広は両前が可なり上の方から切り落として、丸みをつけたものであっ

た。ボタンは四つ位ついていたかと思う。下袴(ズボン)のひどく細いのが流行ったの

もこの時代であったと思う。靴も編上げはまだそう一般的ではなかった。この時代の

初期では、鳴り皮と称して靴の底へ一枚皮を別に入れて、歩くたびにギュウギュウ鳴る

のを善しとしていた。

 フロックも、この時代のは胸を広く開けてあった。襟の折返しへ裏を出して見せて

いたのもあった。毛織のテエプのようなもので、すっかり縁を取ったものもあった。

モオニングは後のものよりずっと短かった。

 

 外套は長短いろいろに変った。即ち初期においては短く、後期においてはやや長くな

ったが、ともにボタンは、大外套の場合のほかは、中位の大きさのもので、その数は

大抵五つ位はあったろうと思う。

 和服に至っては、吾々貧乏書生にはどうというほどの記憶はない。唯この時代の初期

には素人の男でも、少し洒落た人は、黒縮緬の紋つきを着ていた。大島紬は余り知られ

ていなかったように思う。夏の衣服では、薩摩飛白は一般に知られていたが、久留米は

余り知られてはいなかったであろう。

 二重廻しは二十五六年から行われだしたものであろうと思う。それまでは、吾々は冬

でも上へは何も着なかった。雨の時でもそうであった。女の方は襟のかかった雨合羽を

着ている者もあったが、男で雨合羽を用いたものは吾々の知人などのうちには一人も

いなかった。旧式のトンビを用いた人は少しはあったろうと思う。

 その代り、この時代の初期には肩かけが流行りだした。大きい風呂敷のようなものの

四方に幾つも房の附いているやつを中から二つに折って、即ち三角形の形にして吾々も

肩から背へと背負ったものだった。

 元より書生間の流行であったが、舶来の絹の色のついた半巾(ハンカチ)で首を巻く

ことがはやった。少し黒のかかった赤い色のものなどが一番広く用いられたようであ

る。

 シャツは洋服の分は無論糊で固めたホワイト・シャツが正式であったが、吾々などは

フランネルのシャツへ胸とカフス・カラアとを白い固いので取りつけて間に合す合も

あった。この時代の後期には、夏のシャツで、縮みの縞で前を打紐で編上げのしたもの

が流行った。吾々もそれを洋服用として用いたものであったが、夏目漱石君はそのフラ

ンネルのシャツを洋服の下へ着てウード師を帝国ホテルに訪問して、錠前直しと間違え

られたという話である。

 帽子は、紳士用としては、山高帽であったが、今日のものの二倍ぐらいの高さの縁の

反ったのが行われた。頂辺(てっぺん)が一文字になっているもっと低いのもあった

ようである。書生用としては、釜形帽や、ハンティングの前身のフランネル製の前で襞

をとったものなどもあった。夏帽は矢張り麦藁が一般であったが、今日のものよりも山

が低く縁が広かったように思う。リボンに赤いのなどがあって、今日では如何にも無粋

なものであったのだが、吾々は得意でそれを冠ったものだ。

 下駄は南部表、もしくはそれのまがいの前のめりの駒下駄が一番広く行われていた。

籐表_即ち蝉表_はまだそう行われていなかったように思う。麻裏草履が広く用いられ

ていた。職人の突っかけ草履もよく見掛けた。車夫その他の労働者は大抵草鞋を用い

た。従ってどこの荒物屋にも草鞋が吊してあった。今日ではどうかすると草鞋を買うに

は可なり探さなければなるまいかと思う。その時分の草鞋は藁ばかりで作ったもので、

後のもののように布は何処にも使ってなかった。

 雪駄は古くからあったものであるに拘らず、面白いことに、一時すたれた形になって

いたように思う。穿く人を多く見かけるようになったのはこの時代より少し後になって

のことであったと思う。

 

 ここで髪の刈り方をいうべきであろうが、老人は大抵撫でつけ即ちまあオール・バッ

クのような形にしていた。われわれは毬栗即ち五分刈であり、紳士連は主に左から、

七三分け位にしていた。この時代は皆もみ上げを残していたし、誰も床屋で鼻の穴を

すらせるのであった。真中から髪を分けるようになったのは明治三十年近くであり、

もみ上げもそのころからだんだん多くそり落とすようになったと思う。

 持ち物などについても僕は幾らも書き得ない。巻煙草が今日ほどは、はやらなかった

のだから、煙草飲みは大抵刻みを用いた。煙草入れは筒つきの腰下げのものであったよ

うだ。共皮若(もし)くば共布の筒つきの煙草入れはも少し後で用いられるようになっ

たと思う。明治十七年ころのことかと思うのだが、西洋刻みをライスペエパアで自分で

巻いて飲むことがはやった。始めは小さい簾を用いて巻いていたが、直きに小さい機械

が輸入されてそれを用いるようになった。この時代では、後期に近くなって、カメオと

か、ピンヘットとか、バイレエトとかいうような外国巻煙草が輸入されだしたのみで、

日本製の巻煙草は岩谷の天狗煙草があったばかりのように思う。西洋巻煙草を真似た

京都の村井のサンライスヒイロウの売り出されたのは少し後ではなかったろうか。

 食い物については、僕などは殆ど何もいい得ないのだが、唯西洋料理屋の数の実に

少かったことだけはいい得られる。そしてそこでは、コオスを食わざるを得なかったの

であろう。今日のように品を選んで注文し得るようになったのは少し後のことだと思

う。その代り天麩羅屋で小料理もするというような家は沢山あった。講武所宇治の里

など入り込みの飯屋であったが、そこでは、昔上野の坊さんの支度所であった名残りで

あったのであろうが、酒を茶の土瓶へ入れて客に出すのだった。牛肉屋が随分多かっ

た。それが書生に対しては今日のカフェーの役を勤め、そこの女中_即ち、ねえさんが

今日のウエートレスの格であったわけだ。

 この時代の初期には、揚弓場がほうぼうにあった。十一二年ごろには芝の公園へ赤羽

から入って行くところにある土手のあたりにも一二軒あったことさえ覚えている。神明

は元より、浅草郡代湯島天神とそういうところには揚弓場が群居していたのだが、

淡路町の宝亭の横町になるあたりにも数軒あった。これは坪内逍遥大人の『書生気質』

に描かれている。これ等揚弓場たるものは、矢取女と称して客を取る女がいて、客の

相手をして、揚弓をともに引きなどして客をもてなすのであった。弓を持つのは左の手

をもってするのが正式であるのだが揚弓場の女はなるべく弓を右の手に持って射るよう

に教えられるのだと聞いた。それは客と向い合いになるようにするためであったのだろ

う。

 明治十六七年ごろであったろうか。下谷の佐竹の原が開けたが、そこへできた大弓場

の女で右の手で弓をとるものを見たことがある。思うに、前記の揚弓場の女と同じ理屈

であったのであろう。

 これ等の揚弓場が後の銘酒屋の前身だといって宜しいであろう。市中の銘酒屋なる

もののできたのは明治二十五六年頃だと思う。横浜のちゃぶ屋なるものの制度の東京へ

侵入して来たものと見るべきであろう。

 まだ明治十五六年頃までは、根津に遊郭があったと記憶する。藍染橋までのところは

両側に引手茶屋があって、そこから北が女郎屋であった。元より今のように道が真っ直

ぐに団子坂下へ抜けているのではなかった。藍染橋からものの三町と行かぬうちに突き

当りになっていたと思う。それから先は田だの畑位になっていたのであろう。その時代

には根津から団子坂へ行くには、権現の裏門から行く小さい現今の路によるほかはなか

ったのだ。

 明治二十年ごろにはもう菊人形が盛んになっていたろうと思う。

 この時代の末期までは、まだ吉原が可なり富裕な紳士連の遊所としての勢力を維持し

得ていたろうと思う。娼妓があの鼈甲の簪を幾つもさした姿で店を張ってる店も幾軒か

あったのではなかろうかと思う。明治三十年ごろになっては、娼妓にそういう昔ながら

の姿をさしていたのは龍ヶ崎という店一軒きりのようであった。

 芸者町は、この時代では、赤坂さえまだ幾らも発達していなかったであろう。溜池

その他山王下の池が埋められたのは何時ごろのことか今記憶していないが、あの辺の

発達はその後のことである。神楽坂も富士見町も少くとも此の時代の後期になって台頭

しだしたものと見てよろしかろう。

 この時代の前期には待合というものはまだできていなかったかと思われる。まだ船宿

の時代であった。料理屋で客を泊めたのもあったらしい。そういう隠れ座敷の残ってい

るのが、明治三十年ごろまでにはあったように聞いている。 

 

 この時代の初期の交通機関は唯人力車とガタ馬車があったのみであった。いうまでも

なく、人力車は護謨輪なんぞは思いも寄らぬ。金輪でバネも悪かったのだが、それでも

吾々はそう乗り心地が悪いとは思わなかった。遊郭通いの車は高台と称して、梶棒を

上げると、客の身体がうしろへ落ちて、膝頭が上へあがるというような風に、腰を掛け

るところの勾配を作ったものであった。これは車夫が早く駆け得るためであったので

あろう。瀧夜叉だの、自来也だのを悪どい色彩で背に蒔絵した二人乗は直になくなった

ように思うのだが、普通の一人乗と同じ無地の塗りの二人乗は明治三十年ごろまでは

まだ余程残っていた。

 ガタ馬車はいわゆる円太郎馬車であった。きわめて粗造な木造の車体へ真黒に汚れた

母衣(ほろ)をかけたもので、馬は二頭であったかと思う。馬丁が短い角型の喇叭を

吹いて行人を警戒するのであった。本郷通りなどでは夏はそういう馬車の馬が斃れた。

ある時は、馬が外れて、四町目あたりの薪屋の前に積んであった薪の山へぶつかって、

馬が崩れ落ちた薪の下へ埋られたようになったことなどもあった。

 円太郎という名称の起りについては二三説があるようであるが、橘屋円太郎という

落語家が高座で馬丁の持っていたのとおんなじの喇叭を吹いて、馬丁の真似をしたの

で、その名称が起ったのだろうと僕は思う。

 前記の本郷通りをとおった馬車は、筋かい即ち今の白梅のあたりから板橋へ通うもの

であった。そのほかには浅草から千住の方へ通うもの、両国あたりから市川の方へと

向けて通うもの新橋から品川方面へ向けて通うものという風に、三系統があったので

あろうと思う。 

 鉄道馬車のできたのはこの時代の前期であったようであるが、新橋から大通りを上野

へ出て、浅草を経て、浅草橋に至り、それから本町三丁目をとおって、大通りの線に

入るというだけの部分しきゃ通じていなかった。二十二三年頃でさえ、新橋品川間は

まだガタ馬車が通っているのみであったと記憶する。車体は前の円太郎よりは余程よく

なっていたけれども。動揺は随分烈しかった。トラックの円太郎自動車に決して劣らな

いくらい揺れたと思う。

 九段下から両国へと通う赤塗りで御者台の可なり高くなっている馬車の始まったの

は、この時代の後期であったかと思う。これはオムニバスといっていたように記憶

する。これは鉄道馬車が柳原を通うようになると、直きに廃止された。

 大官、貴族は箱馬車を自用として持っていた。また、ドッグ・カアトを持っていた

紳士も少くはなかったかと思う。

 自転車もこの時代に輸入されたかと思うのだが、無論三輪車であった。この時代の

末期に近い時分であったろうと思うのだが、直径五尺もあろうかと思われそうな大きい

輪と直径一尺には足らなかったと見えたような小さい輪の附いた自転車が行われた。

これは実用的のものではなくして、青年などが慰みに乗るものであったようだ。下谷

にそれを借す家があったらしく僕の友だちなどで、それを乗回したのがあった。

 隅田川を一銭蒸気が通いだしたのは何時ごろであったかよく記憶せぬが、明治二十二

三年ごろにはもう確に通っていたように記憶する。

 

 次ぎには、順序が少し変になったが大人の遊戯、勝負事のことを書いて置こう。銃猟

は無論流行した。仙石貢氏等の大学生時代_明治十四年ごろか_には度々友人等と猟に

出たというような話を聞いている。玉突も可なり行われたようであった。花札が広く

売られるようになったのは、明治十七八年頃かと思う。この勝負事(ゲーム)は上方

から移入されたものといってよろしかろう。小さい射的の店が諸所へできたのは明治

二十年頃かと思う。

 競馬は横浜の根岸が元で、不忍池の周囲が埋められて馬場が出来たのは明治十六七年

頃かと思う。

 明治十八年頃までは市内の諸所に借馬屋があった。そういう借馬屋には何処にも小さ

いながら馬場が附いていて、その馬場を幾往返で幾ら、外へ借りて出れば、一時間幾ら

という風に、料金が極められていた。僕の覚えているのでは、団子坂下に一軒、本郷

田町に一軒、天神町(数寄屋町寄り)に一軒とそう三軒借馬屋があった。僕の家が本郷

五丁目_本妙寺坂下_に地面を借りていた時分、地主が借馬屋をやろうと言い出して、

僕の父が調馬の仕事を引き受けてやったことがあるが、それは余り客がなかった。その

時分には、可なりな馬でも五十円位、安いのは十五円ぐらいなのもあった。

 子供の遊びは、土や鉛のめんこ、ばい_これをべえといっていた_凧、金胴の独楽の

ぶっつけ合いなどが重なものであった。竹馬も無論行われた。べえは法螺貝を少し長め

にした様な小さい貝であったが、その貝の半分以上を石で叩き欠き下の部分の横にも

少し穴をあけ其処から蠟なり鉛なりを注ぎ込んで重量を附けて置く、それから一方で

は、盥の上へ蓙(ござ)なり畳表の古いのの切れなりを敷いて、その中を窪みにして

置き、べえの下のところへ紐を巻いて、双方から、その蓙の窪みのなかへ独楽のように

回し、それがぶつかり合ってはね出された方を負けとするという遊びであった。これは

僕などの子供の時分のものであったのだからそう長く続いたのではなかろうかと思う。

とにかく、僕の子供の時分には、玩具屋でべえの貝を売っていた。

 明治二十年頃までは、初午の稲荷祭も方々で行われ、地口行燈(地口(言葉遊び)を

書いた提燈)の幾つも並べ掛けられた路地の奥から、子供の叩くらしい太鼓の音が聞こ

えて来るのであった。

 神社の大祭も、明治十五六年頃までは、大抵夏の盛りに行われたようであったが、

連年コレラが流行ったがために、何時の間にか秋祭になってしまった。まだその時分に

は、昔の江戸の祭の面影を止めていた。牛に引かせた山車、踊屋台、神輿、それにつき

添う若い衆等の揃いの浴衣、可なりに華やかで賑やかで威勢のいいものであった。神田

祭に、娘を吉原へ売ってその金で支度したという時代には無論及ばなかったけれども、

それでも、一体に祭には随分とはり込んだものであった。一昨年か去年の六月かに四谷

見附で山王の神輿を見たが、皆牛に引かして囃子か何かついていた。道路の交通上やむ

を得ずそうなったのであろうが、全く隔世の思いがした。

 その時代でも、子供が樽天王を担いで回ったのは近ごろと同じであったが、子供が

黄色い麻を襷にして、それで小さい犬張子、達磨というような玩具を縛りつけ、万燈を

振って飛び歩いたのは、今ではもう古い事のなかへ数え込んでもよかろうと思う。玩具

屋で万燈を売っていなくなってからもう可なり久しくなるであろう。一葉女史の『たけ

くらべ』_二十八年作_には子供の祭の時の出でたちが、

 『くちなし染めの麻だすき成るほど太きを好みて、十四五なるより以下なるは、

達磨、木兎(みみずく)、犬はり子、さまさまの手遊びを数多きほど見得にして、七つ

九つ十一着くるもあり、大鈴小鈴背中にがらつかせて、駆け出す足袋はだしの勇ましく

可笑しく…』

 という風に書いてあるのだが、その時分でも、山手では、そういう風俗はそろそろ

なくなりかけていたような気がする。

 町内の子供が団結して、他の町内の子供の団結と喧嘩して石合戦をしたというような

のは、精々で明治二十年くらいまでのことで、その後は教育の普及と警察の完備と共

に、何時の間にか止んでしまった。

 青年の方でも、熊本の学生と薩摩の学生、薩摩の学生と土佐の学生という風に、学生

が幾分団体的の喧嘩をするというような風習は、これも精々で十四五年ごろまでのこと

であったと思う。ここで、一寸考えさせられることは、その時代は封建殺伐の時代を

去ること余り遠くなかったに拘らず、学生間には刃物を以て人を傷つけたというような

ことを殆ど聞かなかったことである。少青年が小刀(ナイフ)などを振り回すように

なったのは、どうしても明治二十七八年の戦役以後のことである。

 

 明治十四五年頃からこっちの事で注目に値することは、それらの時代から思潮の上で

の反動期に入りかけていたためでもあろうが、古い行事などの次第に復活しだした状態

である。明治の初年には旧弊頑固として棄てられた事物がまたそろそろ用いられ始めた

のだ。これは、民衆が一端古い趣味は排けてしまったもののそれに代るべき新しい趣味

は生れて来なかったので、もとの古い趣味に段々と戻って行くより外はなかったという

ところも余程あったろうと思う。

 要するに、維新の革新は進んだ少数者の進まざる大衆に対する勝利征服に過ぎなかっ

たので、世の中が落着くに従って、大衆の方は次第に後戻りをしたという形に見えた。

 古い骨董の愛玩、古い行事の復活というようなことが眼だちだした。豆蒔きが都門

近くの神社や仏閣で行われだしたのは、少しあとであったとしても五月幟、雛祭など

が、そろそろ広く行われそうになり出したのもこの時代である。撃剣、弓術、柔術

いうような武術の復興が可なり目ざましかったのもこの時代である。なかにも、老若を

問わず誰にでもできる弓術の流行は可なり盛んであった。市内で、いわゆる大弓場の

一軒もない区というのは殆どないといっていいくらいであった。手のかかり費用のかか

流鏑馬、騎射の如きさえ、明治二十年頃には一度大規模で執行されたことがあった。

 撃剣も可なりに行われて、九州の上田馬之助(義忠)、松崎浪四郎などの老大家の名

が度々我々の耳に入った。

 市中で、骨接ぎ、柔術教授の看板をよく見かけるようになった。流派は天神真揚流と

いうようなのが多かったように思う。講道館の創立も大凡そのころであったであろう。

 その外、謡、茶の湯、活花というような芸事、易、禁厭(まじない)、巫女伺いと

いうような迷信なども、二十七八年ごろに近づくに従ってだんだん弘布するようになっ

た。

 さて、書き落とした建築_家_のことを少し書くことにする。明治二十五年ごろまで

は、まだ勿論、洋風の家というのは実に少なかった。商店などでは、銀座以外には洋風

の建築は先ずなかったといってよかったであろう。それのみならず、明治十五六年ごろ

までは神田の錦町、神保町からかけて、麹町の番町などには、まだ昔の旗本邸の建物の

そのままに残っているのが幾つかあったくらいであった。中央大学の起源ともいうべき

三菱商業学校_明治義塾_の当時の校舎は大きな旗本邸らしいものをそのまま使って

いた。

 その時分には、住宅難どころではなく、家主難ぐらいなものであったのである。借家

住宅ならば、山手などにはどこにでもあったといってよかった。それでいて、まだその

上に、家賃五円位な家なら立派な庭が附いているのであった。いや、全くのところ、今

僕の住まっている小石川あたりなどでは、庭の無い家を探すとしたら、却ってその方が

骨が折れたろうと思われるくらいであった。この辺のその時分の家は大抵門構えであっ

て、街路から直ぐ格子戸になっている今のような家は殆ど一軒もなかったと思う。それ

ほどまでに、市内にも地面に余地があったのだ。

 街路の照明は、銀座の大通りだけは瓦斯の街燈があったが、そのほかの大通りが何う

なっていたかよくは覚えていない。この時代の瓦斯にはマントル(覆い)がなかったと

思う。家のなかは、銀座の大通りだけが瓦斯を使っていた位で、同じ銀座でも裏通りは

大抵石油ランプや行燈を使っていたようであった。軒燈はもうあったかも知れぬが、

まだ一般的ではなかった。この時代の末期までは、まだ芸者屋とか、町内の鳶頭などの

住居には、格子戸の中に、御神燈と称する可なり大きい丸い提燈が下がっていた。山手

などは路が随分暗かったろうと思うのだが、今はその感じが殆ど心に残っていない。

一昨年の震災直後のことを思い出してみて、始めて昔の暗さが心にはっきりと分かる位

なものである。幸いにして人間は、苦しかったこと、悲しかったことを早く忘れるもの

である。