秋日散策 馬場孤蝶

   

          渋谷あたりの追憶

 下渋谷の道玄坂の中程から左へ入ったところの丘の上の、名和男爵邸のなかの家に

与謝野寛君が住っていて、そこを僕が訪ねたのは明治三十四年の冬か翌三十五年の春か

であったと思う。与謝野君はそれから少しして、その近くの崖の下の、回り縁のある家に越した。千駄谷の徳川邸の西側の方へ越したのは日露戦争の少し前ぐらいであった

ろうと思う。

 その時分の文学者の生活を思うと、今とは全く隔世の感がする。僕などは、とにかく

外に定収入のあるみちがあったので、どうにかこうにか暮らしていたが、文学を職業に

していた人々の生活に至っては、全く奮闘の生活、背水の陣というべきであった。原稿

の売先が僅か二三ヶ所しきゃなく、その上に、稿料の高もいうに足りないものであった

ことは、ここにいうまでもないであろうが、従って、社会的にも人として、何等認めら

れて居るのではなかった。

 新詩社の『明星』は当時の新文学の大きい、華やかな幟じるしであり、吾々若き文学

者の奮戦のラリイング・ポイントであったといって宜しかろう。『明星』が当時の新文

学の伝統を支持すると共に、後来の進展に対する足場を作ったことは、何人も疑い得ざ

るところであろう。殊に詩と短歌の部面においての新詩社の大功績は明治文学史上に

燦として輝いて居る。

 与謝野君御夫婦はよくまァあのような全く惨憺たる生活苦を忍びながら『明星』の

刊行を続けられたと思う。文学、詩歌に対する熱愛の然らしむるところであったことは

いうまでもないのであるが、それにしてもあの忍耐と勇気は、今思い出すごとに、感嘆

の念を禁じ得ない。

 僕はこの頃、時々道玄坂の横町にある古本の即売会を見に行くので、あの辺の変り方

に眼を見張ると共に、与謝野君御夫婦の下渋谷時代、千駄谷時代のことを思い出して、

感慨深きものがあるのである。

 土地の変り方は全く滄桑の変と謂っても然るべきくらいであろう。宮益坂道玄坂

も、昔は道幅のグッと狭い、もっとズッと急な坂であったことはいうまでもないであろ

うが、渋谷の駅ももう少し南に寄っていて、昇降口は西の方にあったような気がする。

これは駅が大きくなったために、今のようになったのではあるまいか。

 上田敏君と一緒に宮益坂を下りて、与謝野君を訪うたことを記憶するが、坂は両側が

生垣になっていて、僅かに五六間幅ぐらいな路であったような気がする。坂の下の踏み

切りを越えると、両側は水田であったように思う。全く広重などの絵にありそうな地景

であった。道玄坂へとあがって行くと、坂がいわばおでこの額のように高くなって居る

あたりの左の方に狭い横町があって、それへと曲って、与謝野君の家へ達するのであっ

た。そして、この路は環状をなして、東の方へと曲って、渋谷の駅へ達していたと記憶

する。多分この路は線路を越して、渋谷から目黒の方へ続いている路へ合するのであっ

たろうかと思う。

 

 今年の四月二十五日の午後であったと思うのだが、渋谷の即売会の帰りに与謝野君の

故宅のあたりを唯心あてに歩いてみようと思った。勿論、地図も何も見て置かなかった

ので、ただ全くの当てずっぽうの散策であった。道玄坂を一町ほど上って行ってから、

左へ下りてみたが、どうも少し昔の路よりも西へ寄りすぎたのではないかと思った。

勿論、何もかも変ってしまったので見当も何もつきはしない。

 直きに大和田町というのへ出てしまった。伊藤旅館というのは、俳人の伊藤鷗二君の

お宅かなどと思いながら、歩いて行くと、路は少しく高くなって、南平台というのに

なった。これでは与謝野君の昔の家のところなどは、もうとっくに通り越してしまった

ことは確なので、せめて、恵比寿の方へ行く谷あいの路へ出ようと思ったのだが、桜

丘、鶯谷などというのがあって、その先きでやっと、省線にぶつかった。それを越して

からが、昔の道になるのではなかろうかと思ったのだが、昔は森だの、藪などばかり

しきゃ見えなかったところを、今は何処を見ても、アスファルトの坦々たる道が通じて

居るという有りさまなので、余りの変りように、ちょっとぼんやりした形になって、

つい線路の西側を通って、公会堂通りを経て、恵比寿へ出て、田町行きのバスに乗って

しまった。

 何しろ、もう三十年程たって居るのであるから、変るのは当然なことではあろうが、

吾々には郊外の変革は実に驚くべきものがある。その前三十年間はそんなに変らなかっ

たと思う。少くとも、僕らが少年時代から壮年時代までの二十年間は、市内でさえも

変らないところが幾らもあったと思う。人々が郊外に家を求めだしたのは、先ず明治

四十年以後のことと見て宜しいのであろう。その後、大正八九年頃から、市内の住宅難

が始まりはしたものの、震災がなかったら、ここまでの郊外の大発展は見られなかった

ろうと思う。つまり、この大変化は先ず正味十五年ぐらいの間のことである。全くよく

もこう変わってしまったものである。

 与謝野君の渋谷の家を訪ねた時分には、僕は麹町の飯田町、小石川の金富町などに住

っていたので、牛込から新宿までは汽車で行き(電車にはなっていなかった)それから

渋谷まで歩いたものであった。その路は例の大きな欅の立木で囲んだ家などがあり、

また、野草が茫々と生えた野原のようなところもあったりして、如何にも田舎路らしい

気がして、面白かったので、代々木で乗換えはせずに、新宿まで行って、回り道なが

ら、甲州街道を少し南行してから、左へ折れて、前記のような田舎めいた路をたどっ

て、道玄坂の下へ出るのであった。その路は今は変っていることは勿論だとは思った

が、それはどんな風になっているのであろうか、ためしに歩いてみようという気になっ

た。それには先ず千駄谷から新宿の方へ向けて行き、渋谷へ向かう路のどこかへ出る

ようにしようと思ったのだ。

 渋谷を歩いた翌日の二十六日には、四谷の大木戸から千駄谷の方へ歩いてみた。

 

         千駄谷あたりの追憶 

 与謝野君の千駄谷住いの時分には、僕は牛込の弁天町にいたので、よく与謝野君を

たずね、大抵は深夜になって帰るので、車で送って貰いもしたが、徒歩で帰ったことも

度々であった。

 夜なかの一時頃に、千駄谷駅から、御苑に沿うて北行すると、水車があって、小さい

橋があり、それを越して、内藤町へ入って、大木戸へ抜けるのであったが、その間が

如何にも淋しい路であった。

 僕はその路を逆に歩いてみるのであった。大番町の広い大路を横ぎって、内藤町

曲がり、真直ぐに行ったが、このあたりは屋敷が皆綺麗になったのみで、路の模様は昔

のままのように思った。路は自然に左へと曲って、大番町の大通りへ出てしまったが、

右手に小さい橋がある。池尻橋となって居る。(古い東京図には沼尻橋となって居る)

その橋の向うは、土地が一段低く谷あいのようになって、昔の水車の面影を止めた家が

ある。橋を越すと、右は御苑の木立で、左は前記の家の板塀になって居る。このあたり

も勿論昔の形を大体残して居る。路はまた、大番町の大通りへ合してしまうのである

が、それから先きが、昔の記憶とは合わないように思われたのである。もとより鉄道線

路は少しだらだら上りの坂の上にあったきりで、今のような高架線ではなかったのだ。

それはそれとして、凡そこの辺りにあった筈だと思うあたりに千駄谷の駅らしいものは

見えないのだ。それで、まァとにかく歩いてみろと思って、広い路を直行して、右へ

曲がり、商店などのある可なり賑やかな通りを西行してから、左折し、神宮の手前から

右へ曲って、代々木練兵場の北口へ出たのであるが、僕の昔通った渋谷への道は神宮に

沿うていく訳になるのであろうとは思われたけれども、往来止めになって居るので、

引っ返して、練兵場の丘の下を、小川に沿うて、南をさして進んだのであるが、だん

だん見当がつかなくなったので、代々木八幡という小田急電車の駅のところから、バス

に乗って渋谷へ出てしまった。

 昔、新宿から僕などの歩いた路は、どうしても今は練兵場の中へ入ってしまって居る

のだと思う。昔の路は渋谷へ可なり近くなって来たところに、陸軍の衛戍監獄というの

があった。そういう点から考えると、その路は大体現今の神園町とか、神南町とかいう

あたりを通り、刑務所の東を通り、今の宇田川町から、神宮通りへ出て、道玄坂下へ

出て来るようになっていたのであろうと思う。現今の小田急に沿うた低い谷あいの路

ではなかった。どうしても谷の上の路であって、監獄のあたりから渋谷の方へ向けて

ちょっとした坂になって居ったと思う。

 今より二十年ぐらい前までは、旧市内からほんのちょっと歩み出すと、全くの田園

らしい野景に接することができたのであるが、今はどうして、吉祥寺とか、砧とかいう

ような新市外まで行ったところで、昔のような自然の勝った景観は見られなくなった。

農家は勿論、畑も、田も、何んだかずっと綺麗になってしまったように見える。

 

 この月、即ち九月の十九日の午前、大番町から内藤町、池尻橋という風に千駄谷へ

向けて行ったが、どうも矢張り駅へは出で得ずに、霞丘というあたりを通り、池尻橋の

ところの川の下流であろうと思うような小流れを見、原宿、隠田を通って青山北町

出てしまった。その翌日二十日午前には、信濃町から歩いてみたが、やはりなかなか

千駄谷の駅へは出ない。どうも駅は昔の位置からは西の方へ移ったような気がするの

で、この日は御苑に沿うて曲って居る狭い路をたどってみたが、今度こそは駅の右手へ

出ることが出来た。昔の駅は池尻橋からこんなには離れていなかったと思う。路はその

時分は駅の右手を通って、徳川邸に沿うて左折し、そこが住宅地になって居った。とこ

ろで、線路と徳川邸の間は二尺ぐらいの高さの土手で囲まれた空地になっていた。与謝

野君のうちからの帰りに、森鴎外さんやその外の人々と共に、この路を夜歩いたことが

ある。日露戦争の直後であった。森さんが軍刀の欛(つか)を握って、こじりが土に

つかないように引き上げて、気軽に人々と話しながら、ぬかるみをよけよけ歩いて居ら

れた姿が今もなお眼前にありありと思い浮かべられる。

 当時の徳川邸は西の方が裏手になって居った。そこは茶畑になって居ったようであっ

た。明治二十年か二十一年かの晩秋、徳川邸での流鏑馬と騎射の天覧は、この茶畑に

なって居る場所においてであったろう、その時の騎手のうちでは、今京都に居る小笠原

清通氏の外には、今は幾人も残って居らぬであろう。

 千駄谷の駅が西の方へ移ったものだとすると、徳川邸も西の方へ広がったものと思わ

ざるを得ないのだが、そうなると、与謝野君の住んで居られたところは、現今の徳川邸

の南になるか、あるいは、徳川邸の中へ入ってしまった訳かになるのだろう。与謝野君

生田長江君の住宅からは、現今の鳩森八幡は少し西寄りになって居ったように思う。

それとも、そういう住宅地は、今の徳川さんの正門前の路を隔てた西の方の宅地のなか

になって居るのであろうか。どうも今の千駄谷駅の位置から考えると、そうではなさそ

うに思えてならぬ。僕は、そんなことを思いながら、八幡に沿うた路を下り、何時の間

にか、渋谷へ向かう環状道路へ出て、参宮道を横ぎって、渋谷まで歩いてしまった。

 ところで、ここに一つ僕に取ってわからぬことがある。それは池尻橋の下の川は新宿

の裏手を通って、昔の内藤候邸(今の御苑)を抜けて出て来る旧玉川上水であって、

赤羽川の上流になって居るのであるが、この川が一体どういう風に流れて居るのであろ

うかという点である。隠田を流れて居るのも、代々木練兵場の西麓を流れて居るのも、

同じ川であって、それが昔の渋谷駅の東を通り広尾へ出て、天現寺を過ぎるという訳に

なって居るとも思われるし、文化の江戸図も嘉永の江戸図にも、この川は大木戸のとこ

ろから一筋になって居るのだが、嘉永の切図を見ると、内藤邸の西の方にもう一つ玉川

上水の分れらしいものが一筋ある。どうも、この流れも、どこかで、前記の大木戸から

の流に合流して居るのではなかろうか。古い郊外図か、五万分の地図でも調べて見たい

と思って居る。