馬場孤蝶「東京の天然」「東京の女」

     

 先日久しぶりにお濠というものを見てよかったが、この写真が以下の内容に合って

嬉しい。そして真夏の真昼時の、時が止まったようなあの感じも大好きなので嬉しい。

                  一

 少し間暇(ひま)が出来さえすれば、何うしても何処かへ旅行せずには居られなかっ

た時分があった。即ち山を見るか海を見るかしないと、何んだか心が萎び切って了(し

ま)うような気がしたことがあったのだ。

 暫時、人事の草忙裡を離れて、新鮮な天然に対して、胸底の塵芥を洗うとでも云う様

な心持で、旅へ出たのも、最早(もう)一昔前になって了まった。此の頃では、却っ

て、都会の賑やかな所が、面白くなって、暑いのも構わずに縁日の雑踏の中を、植木屋

をヒヤかして、歩くことなどもあるようになった。

 田舎生れの僕も、三十年以上の東京生活に教化されて、今頃都会の面白味が解ったと

思われる。

 所で、全く都会人になりおおせたかというと、残念ながら、そうではない様なのだ。

依然(やはり)、何処かに天然を好む念が潜んで居るのだ。

 けれども、それは、最早人間を遠く離れたような天然を慕うのでは無い。人間に

近い、若しくは、人間の多い市にチラばっている天然を賞(め)でる心なのだ。言葉を

換えて言えば、全然都会の雑踏の巷でも、面白からず、さればと云って、全く天然の

最中でも面白くないという、中ぶらりんの、折衷的位置なのだ。

                  二

 東京は大都会である。少くとも、その広さに於ては左様(そう)だと云わなければ

なるまい。その広いことの有難さには、天然の断片が諸方に見出される。尤も心の底

まで都会流になった人々や、父祖から都会人たる伝説を伝えて居る人々に取っては今の

東京には、随所に破壊の痕が見出されて、そういう人々には、現在の東京は、旧き東京

の残骸に過ぎぬであろうが、吾々田舎出の者に取っては、未だ幾らか堪え得られる程度

に於て、旧い東京の面影が、所に依って残っているように思われるのだ。

 勿論僕の所謂東京の内の天然の断片は、人口の加わった天然なのだ。即ち寧ろ人間の

造った天然と云っても宜いのだが、そういうところが又、東京のような大都会ででも

なければ、到底見られないものなのだ。

 外国の或詩人の書いたものの中に、人間が、或建造物を造って、天然の裡にそれを

置き捨てるというと、天然はそれを己の懐に収めて、それをば自分のものにして了う、

というような事が、書いてあったように思う。これは、確か大羅馬の大劇場(コロジユ

ム)の遺址に、木が生え、草が茂って、殆ど自然の丘のような姿を呈して居ることを

書いた場合の言葉であったと思う。

 僕の所謂東京の天然は、全くその通りに、天然の懐に収められた人工物であるのだ。

 以上に云ったような意味で、僕は、麹町の新見附が好きだ。其処に立って、西の方を

見るのが好い。四谷から佐内坂、佐土原町へ掛けての丘の遠景も一寸好いが、最も好い

のは、濠の眺めだ。

 両岸の樹の静に枝を垂れたような処も好ければ、濠の水の水さびた所も面白い。

殊に、風のない夏の真昼時の静な景色が大変に好い。何んとなく打沈んだ沈静の眺が

心持が好いのだ。四方の堤(どて)で箱のように画(くぎ)られているので、却って

小天地のようで面白いのであろうかと思われる。秋の末に夜霧の立った月夜の晩などは

非常に好いのだ。月夜に、麹町の、高い松のある堤を見るのも好い、有りふれた言葉

だが、芝居の書割のような気がする。

 同じ外濠では、四谷見附の堤の松林が好い。四谷仲町の停留所を少し彼方(むこう)

へ下りた辺りから、濠を隔てて松林を縦に見る眺が面白いのだ。赤松の大森林が何処迄

も続いて居るのではなかろうかというような気がする。

 吾々は、何時も景色が吾々の胸のうちに起させる幻覚が嬉しいのではなかろうか。

そうならば、四谷見附の松林は確にその意味で、僕には心持が好いのであろう。

 それから、ずっと飛ぶが、芝のお霊屋(霊廟)の手前からの松林が好い。電車で通る

のは勿体ない気がする。時々海岸に近いところではないか、というような気がすること

がある。芝園橋あたりから、公園を見るのも好い。其処からでは、五重の塔の頂が緑樹

の頂上を抜いて居るのが、如何にも感じ好く眺められる。

 今確には覚えて居ないが、上野の公園の博物館の前あたりの所で、東を見ると、何う

しても、海辺だという気がして為方のない所がある。松がある為めばかりでなく、その

彼方が坂になって居て、空が見通しになる為めでもあるのだろうかとも思われるのだ。

 浜町河岸_長岡さんの邸(やしき)外の所が好い。月の夜も好かろう、朧夜も好かろ

う、闇の夜も悪くはなかろう。が、僕は、或夏の午後、霏雨(ひさめ)の日に彼(あ)

の辺を通ったことがある。大川の面から掛けて、彼の辺一面に雨の烟って居る眺が、

実に心持が好かった。そうなると、新大橋さえ確に景色の一部を整えるのだ。

 それから、大川では、箱崎から中須へ渡ろうとする川口橋辺の、川が入江のように

なって居る所も好く、尚、築地から月島へ渡る所の、帆船が沢山停泊して居る所も

好く、更に又ずっと上流(かみ)へ行って、永代橋から海の方を見るのが好い。僕が彼

の橋を初めて渡ったのは、最早三十年も前のことなのだが、その時は、河口に西洋型の

船が一艘かかって居て、その彼方は縹渺たる(広々とした)大海であるかのような感じ

がした。何んだか東京うちでないような、物寂しい好い心持がした。僕は今も尚その

景色を忘れ得ない。何うもその舟一艘で、景色が大きく見えたように思う。それから、

明治座の前から東の掘割の眺がなかなか面白い。満潮の時が殊によい。蠣浜橋が高く

見えるのも、景色を整えるものの一つだ。そう云えば、その掘割に附いて行って、電車

道を越えてから彼方もなかなか好い。

 その外に、越中島の葦原の秋になっての眺が非常に好いと思うのだが、彼所(あす

こ)は最早間もなく、工場か何かが建って、今の面影は消え失せて了うだろう。

 それから、小石川の水道町とか、金富町あたりの丘から、牛込や早稲田を見る景色が

非常に好い。

 最早二十年も前の話なのだが、本郷の龍岡町に居た時分には、下谷の七軒町の友達の

下宿で話し込んで居て、外(夜)十二時ごろ度々池端を通ったものだ。次節は丁度十一

月の初頃だ。一面に夜霧の閉した空を、雁の声がぐるぐる回って居る。よく聞くと

ギィ…ギィ…という音も聞こえるのだ。それは翼の音だと思った。が、彼の大きい橋が

出来てからは、其様な声が聞かれるか何うだか、今は知らない。

 不忍池は、雪の景色も好い。水の色が濃い鼠色になって来るので、弁天堂の赤い色

が、はっきりと浮き出したように見えて来るのだ。

 真の天然には強い力があって吾々を圧するのだ。が、何処にしても、都会の中に散ら

ばっている僕の所謂天然の断片は何んとも謂えない物静かな穏かな快感を喚び起すもの

だ。畢竟(ひっきょう:つまるところ)、人間という背景がある為めなのであろう。

 

   東京の女

 女に対しての知識は、甚だ浅薄でお話にならないが、まず僕などの目から見て、夏の

女を美しいと思う。日本の女は、欧米の女のように巧みな表情はなし得ないが、夏の

女は、体質の上から言っても何んとなく平均がとれて居る。羽織や綿入を多く着た姿

より、いきな浴衣や帷子を着た姿の方が好いと思う。夏は、女の肉体美の一番善く表れ

る時だ。

 全体東京の女は、可なりな肉付きであっても、夏は殊に、何処となくすらりとして、

桶の様な形にならずに、さっぱりと快く見えるのが、その特徴である。

 従って、その気立てからいっても、負けぬ気のものとか、又おだやかにあきらめの

いい_と言って泣き寝いりをするのでなく、よく感情を抑えて、おだやかに居るという

様な_何方にしろ、はっきりとした心だてのものが多い。

 例えば、如何に自ら思い込んだ事でも、親とか先輩とかが善く言って聞かせて、その

道理が解れば、フッツリあきらめて了う。これは、別に教育によってそう為るのでな

い。そういう風に、ものの道理の解りが早い事は、何うも、地方にはあまり見られぬ、

東京の女の特徴であろう。

 それから又、処世の法と云うのを早くからのみこんで居て、なかなか人をそらさない

ところなど、地方女の一寸真似の能(で)きぬ所である。

 然し、これが発達し過ぎて、却って欠点となって居る人も亦多い。そういう人になる

と、一寸逢った人にでも、もう十年も知って居るかのように、所謂お世辞をふりまい

て、先方(さき)の人に却って不快の感を生じさせることが往々(まま)ある。

 が、東京の女は、話し相手にするのには、善く理解力が発達して居て、心持が好い。

 故一葉女史など、その父君の時代から、東京に居られたのであるから女史は、まず

純粋の東京人で、殊に父君の身分から、生粋の江戸人たちの出入が繁く、そういう中で

人となったのであるから、なかなか世間知識が広かったうえに実に話上手で、逢って

如何にも心持の好い人であった。

 さて、次に、言葉から云うと、田舎の人の鞭撻なのは、いたずらに高調子であるのに

過ぎないが、東京の女は、稍々カンの勝った、透る澄んだ声で、抑揚のある、話し振り

だ。そういえば、男でも、田舎の人より、東京の人の方が、そういった所は多いのだ

が、女は、殊に、そういう所が著しく表れて居る。すべて、言葉には、抑揚があると、

殊にその意味が強く響くものだ。

 が、男女を問わず、東京の上流の人たちは、どうも調子が沈み過ぎて居る。如何にも

綺麗な言語(ことば)ではあるが、生気には乏しい。所謂生の好い言語は、中流以下の

言葉であろう。調子も大分高い。

 要するに、所謂キリリとしまったというところが、容貌にも、姿勢にも、気質にも、

あるのが、東京の女の特徴であり且(かつ)長所であるのだ。

  

 やっと出たわ一葉のこと。期待していたのにほんの少しだったけれど…。