馬場孤蝶「義太夫の話」

                            関係ないけど(kawaii

                一

 僕は少年の時分から、義太夫を聴くのが好きであった。慥か、明治二十一年頃と覚え

て居る。姉が、土佐へ旅行したことがあった。その時、姉は、女義太夫の弥昇というの

を、旅宿の座敷に呼んで、聴いたことがある。弥昇は、その後間もなく、竹本稲桝の

一座に加わって、上京した。僕の家は、その後、新橋の日吉町三番地へ引越したが、姉

に贔屓になった縁故で、弥昇は、よく僕の家へも訪ねて来た。で、何時の間にか、稲桝

の一座の連中とも知り合いになったので、僕は、或時は、姉と一緒に、或時は、今代議

士になって居る中村啓次郎君と一緒に、日吉町から、ご苦労さまにも、下谷の吹抜、

両国の新柳亭などへまでも、稲桝一座のかかって居る所へ、よく聴きに行ったものだ。

そういう風であったから、無論、近所の鶴仙や、琴平あたりにかかった時は、殆ど毎晩

のように出かけた。遂(しまい)には学校の教科書を携(も)って、寄席に行って、

面白いところだけ聴いて、他は聞かずに、教科書の下読をやったものだ。ゼボンの論理

学(ロジック)などは、寄席で勉強した所の方が多かったように覚えて居る。

 斯様(こん)な風に、義太夫道楽が進んできた果は、自分でも語ってみ度くなって、

弥昇が家に来た時に、教えて呉れと頼んだ。何を教えようかと云うから、何うせ習う位

なら『三十三間堂』の『平太郎住家』を習い度いものだと、僕が云うと、弥昇は、あれ

は、難しいから、お止しなさい、もっとやさしい物を教えましょうと云うのだ。此方

は、盲滅法何んでも彼でも、『三十三間堂』を教えて呉れと、云い張った。すると、

弥昇は、笑いだして、では、まァやってごらんなさい、と云って、有り合せの三味線を

取って、稽古を附けに掛って呉れた。所が、やって見るというと、第一、先ず最初の

『夢や結ぶらん…』というところからして、難しくって到底駄目だ。では、其処は抜い

て、その次からにしようということになったのだが、此度は『妻は…』で、声が出な

い。弥昇は、もっと上、もっと上と、云うのだが、僕の声は何時までやっても、ちっと

も上へあがらない。まして、『は…』と声をひっぱって行く節が何うしても物になら

ぬ。何遍やっても同(おん)なじように駄目なのだ。大いに閉口して、『成程聞いて

居る方が、余っ程楽だ』と云うと、『此様な難しい物は、駄目ですよ』と、弥昇に甚

(ひど)く笑われた。僕は、それ以来、義太夫の稽古を為てみようと為たことは無いの

だが、時々、冗談半分に稽古を為て見ようかと思うことはあるのだ。因みに云うが、

ここにいう弥昇というのは、今の竹本東佐のことだ。

 僕自身の義太夫に関する経験ともいうべきものと云えば、先ず此様なものだが、これ

から批評とは行かないまでも、今まで僕が聞いた義太夫語に就て二三の感じを云おう。

 大阪の隅太夫_彼の盲目の隅太夫を余程前に聴いたことがある。その時は、僕は極く

年の若い時分であったので、更に明らかな印象は残って居ないのだが、その時聴いた

『鳴門』の奥の、お鶴の死骸に火をかけるあたりからが、非常に面白かったことは今に

忘れない。

 越路太夫_今の摂津大掾_を初めて聞いたのは、明治二十二年頃かと思う。その時分

には、『最早、大分下り坂だ』と云われて居たに拘らず、まだ何うして、美しい声で

あった。『先代萩』の『忠義の段』の『お末の業をしがらきや…』というあたりの節

回しの美しかったことを、今に忘れ得ない。殊に、『心も清き洗米』に至っては何ん

とも云いようのない綺麗な節回しであった。であった。それから、『二十四孝』の

『十種香』を、実によい心持で聞いた。謙信が出てから後は、それ程面白くなかった

ように思う。

 その時に越路と一緒に来た路太夫というのの『紙治』の『茶屋場』を聞いたのだが、

会話が如何にも写実的に語られて、芝居を見たって彼様(あん)な印象は到底得られ

まいと思われるまでに、面白かった。前後を通じて、彼様な面白い語り方を聞いたこと

は、一度も無いような気がするのだ。けれども同じ人の『沼津』や『引窓』は、それ程

面白かったとは思わない。或は、『茶屋場」の曲そのものを、僕が面白く思って居た

為めかも知れぬ。然し『茶屋場』が、路太夫の最も得意な語り物であったのでは無かろ

うかとも、僕は思うのだ。

 同じ一座のさの太夫というのは、壮(さかん)な語口であったと思う。その男には

大きい将来が有るのだろうと思った。彼の男は今は何うなったろうか。

 大阪の文楽座を見度いと思って居るが、まだ見る機会を得ないで居る。人によると、

義太夫も、人形にかけたのを、見なければ、真正の義太夫の味は分らないのだというの

だ。が、折角、善い義太夫を聴いて居るのに、人形が邪魔になってならないと、いう

ものがある。僕には、後者の説には一理があるように思う。

 義太夫曲のうちで、何が一番好きかと云われれば、僕は『恋飛脚』の『新井口村』

が、一番好きだ。

                  二

 これは、大阪の人で、よく義太夫の事を知って居る人の話であるのだが、僕には面白

い話だと思われるので、知れ渡って居る話かも知れぬが、左にその大要を書いてみる。

 義太夫を教えて、真正にそれを仕込もうとするには、同じ一段を何時までも教えるの

が宜いというのだ。ただ無暗に数だけ上げても、何んの役にも立たないものだ。一段中

に現れる人物には、老人もあれば、若いのもある。男もあれば女もある。それに性格の

違ったものも、いろいろ出て来る。そういうものの語り分けを、いちいちはっきりやる

ようにして、同じ一段を繰返す中には、その真の呼吸を覚えて、他のものは自ずと語る

ことが能きるようになるのだ。摂津大掾が若い時に弟子入りをした師匠が、一年間も

寺子屋』か何か一つものばかりを摂津に教えていた。摂津の家内の者等も流石に変だ

と思い『家の子が何んぼ不器用でも何時も一つのものばかりは酷い。それは先ず大抵で

上げさせて、他のものを教えてやって呉れ』と、云い込んだ。ところが、その師匠が

『でも、当人が平気でやって居るから宜いではない』と云ったので、それなりになっ

た、という話がある。

 僕は其の道のものでないから、果して、義太夫の教授法はそうなければならないもの

なのか何うなのか、その当否は知らないのだが、それに就いて、甚だ面白い話がある。

 何代目の長門太夫であったか、紀州の竜門か、何処かの、温泉に湯治に行って居た。

処が、毎日、その宿の前を、馬子唄を歌って通る一人の馬子があった。その声が如何に

も美音であった。長門は、それに聞き惚れて了って、或時、その馬子を自分の部屋に

呼び入れた。そして『お前の声は実に善い声だ。何うだ、俺の弟子にならないか。そう

すれば、日本一の大夫にしてやるが』と、云った。が、馬子は、『私には老年(とし

より)の母親がある。それを見送らない中は、何うしてもこの土地を離れる訳には行か

ない。折角だが、貴下の弟子になる訳には行かない』と、云って、断った。それを聞い

長門は、甚だ失望したのだが、為方がないから「イヤ、それは道理(もっとも)だ、

そういう訳なら、何も今に限った訳ではない。お母さんを見送ったら、その時来て

呉れ』と云って、そのうち、自分は大阪へ帰った。

 すると一年ばかり経って、その孫が長門の許へやって来た。『いよいよ、母親を見送

ったから、兼ての約束通りに弟子になりに来た』と云ったので、長門は喜んでその男を

家に置いた。

 ご承知の通り、芸人の内弟子というものは、ただ芸を稽古するばかりではない。いろ

いろな労働もすれば、また、家の雑用にも使われるものだ。この馬子であった男も、

そういう習慣の下に、義太夫を習い始めた。先ず、一段の稽古は終った。ところが、

始終その一段の稽古ばかりやらされて居る。三年の間、その一段より他一つも教えて

呉れ無い。さすがに、その男も考えだした。此様な塩梅では、十段覚えるのには三十年

以上かかる。二十段覚えるには六十年の余もかかるのだ。其様なことでは、到底、日本

一の大夫どころか、普通の義太夫語りにもなれない訳だ。斯う思ったから、ある日、

長門の前に出て、義太夫語りになるのはいやになった。田舎に帰って、もともと通り

馬子をし度い。是非暇を呉れと云った。聞いた長門は、ひどく失望して、いろいろ

なだめすかして見たけれども、何うしても帰るといって聴かない。で、為方がないか

ら、幾らかの旅費をやって、田舎へ帰すことにした。

 そこで、当人は、大阪から草鞋がけで、てくてく歩きだして、泉州岸和田の近辺まで

来ると、日がとっぷり暮れた。あたりに旅屋(やどや)はない。この辺の大きい家へ

行って、旅のものだが、納屋の隅でも宜いから、泊めて呉れまいかと頼んだ。所が、

その家の者が云うには、真にお気の毒であるが今夜は少し家に取込があるからお泊め

申す訳にいかないと云って、気の毒そうに断られた。けれども此方は、他へ泊めて貰え

ようと思う家もないのであったから、また押し返して、お取込はどういうことか知ら

無いが、別に食べるものも頂かんでも宜い、ただほんとのお納屋の隅で宜いのだから、

一夜過ごすだけの許しを得度いと、折入って頼んだ。すると先方の云うには、いや、

そういう訳なら、お泊め申しましょう。実はこの辺は浄瑠璃の流行る土地で、今夜は、

家でその会をするところだ。それで、何うも、お泊め申しても何んのお世話も能きまい

と思うからお断りしたのだが、それさえご承知なら…と、云うのであった。聞いた此方

は、私も実は浄瑠璃は好きだ、そう聞いては、台所の隅なりとも伺い度いと云うと、

先方でも、それは何うにかしてお泊め申すことも能きるし、粗飯で宜ければ差し上げる

ことも能きる。ただ混雑でお気の毒だと思ってお断りしたのだ。そういうことならまァ

お上がりなさいということになった。そこで少し待って居ると、村の天狗連がだんだん

集まった。三味線を引く者は、大阪で本職になりそこねたというような男で、その辺の

師匠をしている者であった。やがて、会が始まるという時になると、旅の男は、私も

義太夫を少しやったことがあるから、今夜やって見度い、しかし皆さんにはとても敵う

まいと思うから、私が前座をやると云いだした。

 妙に武骨気な、服装(なり)も見すぼらしい男であるから、其様な男に義太夫が語れ

そうにも見えなかったので、一同はほんの座興位にと思って、では、おやりなさいと

云って、三味線引の師匠も、迷惑そうな顔をして、撥を取った。

 すると、旅の男は、三年かかってやっと一段しきゃ覚えられないような不器用な自分

だから、田舎へ帰って、また元の馬子になってしまって、義太夫のことなどは噯気

(おくび)にも出すまいと思って居るのだが、それにしても、一遍は人の居る所で語っ

て見度くもある。所で、素人の間(なか)ならば、何れほど下手でも恥にはなるまい

し、而も、ここは旅だ、よし、やってみよう、後にも前にもただこれ一遍という心算

(つもり)で、見台に向ったのであった。一二行語りだすと、先ず三味線引が驚いた。

苦しいことは夥しい、やっとのことで、畢生の力を奮って附いて行った。やがて語り終

ると、一座感に堪えて何とも云う人がない。さァ、これから皆さんのを伺いましょうと

その男が云うと、暫く一同顔を見合わせていたが、家の主が、座を進めて云うのには、

貴下の浄瑠璃には、全く感服してしまった。もう貴下のを聞いては、私ども誰も後で

やろうという気になれない。真に恐れ入った。もう一段何か聞かせて下さらんかと、

云った。馬子の先生大いに閉口した。いや、真にお恥しい訳だが、浄瑠璃はこれ一段し

きゃ知らないのだからと、云って断ると、主人が、貴人ほどの上手が、たった一段しき

ゃ知らぬというのはあるべきことでない、冗談を云わずに聞かせて下さいと、頼んだ。

けれども、此方では実際一段しきゃ知らないのだ、と云う。其様なら、何卒(どうか)

今のをもう一遍聞かして呉れろということになって、同じものをもう一遍語った。語り

かたの正確なこと、前に語った時と、いわゆる符節を合すが如しで、寸分違いはない。

それで、一座ますます感服して、何うして、貴下ほどの上手が、一段しきゃ知らないの

かと尋かれたので、その男は、実は、私はこれこれの仔細で長門の弟子になったので

あるが、三年経っても一段あがらない。考えて見ると、三年に一段では、十段覚えるに

は三十年かかる、今私は二十位だから、十段覚える時分には五十になってしまう。それ

では、日本一の大夫どころか、もぐりの義太夫語りにもなれない訳なのだから、もう

廃めて、田舎へ帰る心算で、此処までやって来たのだ、と云った。

 一同、その話を聞いて、それは残念な事ではないか、長門程の人が貴方をそういう風

に教えたのは、何か考えがあってからの事に違いない。何んでももう一遍大阪へ行って

辛抱して見てはと、勧めた。いや、真平御免だ、朝から晩まで、そこらをふき掃除した

り、湯吞に湯を汲むということばかりやらされて、浄瑠璃は三年に一段というのでは、

とてもやり切れない。私は何んでも田舎へ帰ると云って、聞き入れない。けれども、

一座の人は、それは内弟子で、何んでも彼でも、身の回りのこと一切、彼方で世話に

なるから、そうなるのであろう。貴下の様な名人がこのまま田舎に埋もれて了うのは、

実に残念だ。私共が拠金して、其様なに苦しくなく修行のできるようにしてあげるか

ら、と、云いだしたので、とうとう納得して長門の処へ帰って行った。

 すると、長門は非常に喜んで、お前は、慥かに日本一の大夫になれるとおれが見込ん

で世話して居たのに、いやになって帰るというから、仕方なしに返したが、残念で堪ら

なかった。善く帰って来て呉れた、と云うので、一層力を入れて、教えて遣り、初め

一段に三年もかかった事であるから、後は何んでもどんどんあがるようになって、とう

とう非凡な芸人になった。長門太夫はその男に綱太夫と云う名を附けて遣った。馬子に

因んで附けた名であったのだ。これが、初代の綱太夫に就ての言い伝えだ。

 ところで、又他の人から聞いたところによると、終の方が違って居る。師匠の処から

暇を貰って帰る時、大阪の境の港で船に乗ったが、船が出ぬ中に、夜になったが、実に

良い月夜になったので、その男は、思わず、たった一段しか知らない義太夫を語りだし

た。すると、近辺に居る船の中で、オー長門だという声を聞いた。ここで、当人は翻然

覚って、自分から、大阪へ引き返したというのだ。何方が真実の話であるか知らないの

だが、僕は、一寸小説めいた面白い話だと思って、義太夫の話が出ると、よく人にこの

話をするのだ。