馬場孤蝶「明治の東京」

     時代に取り残された乗り物

               川蒸気とガタ馬車

 明治の始め頃と云ったところで、僕は十二三年頃から此の方のことしか知らぬので

あるが、僕のそういう記憶の中にある事柄から云っても、交通の機関は、少し遠路に

渉るものであるとすると、汽船と馬車(乗合)であったようだ。

 九州とか、四国とかいうような島内の各地から本土への交通は、封建時代に於て

すら、船(日本型)によったのであるから、汽船が使用させるようになって、それらの

土地から京阪とか東京などへの交通が汽船によって行われるようになったことは云う

までもない事であろう。

 のみならず本土の方でも、例えば入海とか湖水というような広い水の上では、昔も

可なり小舟を交通の手段に用いたところがあったようであるが、そういう場所では、明

治になってからは間もなく小汽船、所謂川蒸気を用いるようになったらしいのである。

 現に僕は明治十一年の初夏(寧ろ晩春か)琵琶湖をば、小汽船で、大津から米原まで

来たことを記憶して居る。船が何噸ぐらいなものであったのか、時間が何れ程掛かった

のか、そういう点になると、何うも記憶が朧気である。それから又、その船は彦根

松原あたりから、支湖へ入って、直接に米原へ着いたかどうか、そういう点も判然とは

覚えていない。けれども、その時分、もう既に琵琶湖を渡る定期の小蒸気船のあった

ことだけは確かである。勿論外輪式のものであった。

 又、その旅で、浜名湖を非常に小型な汽船で渡ったことも記憶して居る。これは今

瀬戸内海で見る島と島との間の渡船で、石油汽缶の付いている極く小型の船があるので

あるが、浜名湖の渡船も大凡そんなくらいの大きさのものであったように思う。薪を

焚いて汽缶の湯を沸していたようにさえ思うのだ。

 そういう風に、所謂川蒸気の記憶はあり、人力車に乗ったことも勿論記憶して居るの

だが、乗合馬車に乗せられた記憶が少しもない。これは僕が忘れてしまったのではない

と思う。自分が乗った覚えがないばかりではなく、乗合馬車の駆けて居るというような

ところをさえ見たこともないようである。

 その時分の東海道などでは、余り乗合馬車がなかったのではあるまいか。駕籠舁(か

き)から変った人力車夫が多かったので、乗合馬車を通ずることができなかったという

ような理由があったという風に考えられないこともなかりそうである。

 しかし、東京では、交通路が大抵陸路なのであるから、乗合馬車はかなりに広く用い

られたようである。船の交通、即ち汽船による交通が開けた土地、例えば東京と横浜の

間の如きでも、汽船と共に乗合馬車の交通が開けたらしく思われる。勿論、これは、

汽船の開通するまでの事態であったのだ。

 両国から、江戸川へ入り、大利根へ出て、銚子まで下る航路の如きは、隅田川の所謂

一銭蒸気よりも早く開けたのではなかろうか。とにかく、一銭蒸気は鉄道馬車よりも

少し後になってできたもののように記憶する。但し、そう云っても、もう明治二十二年

頃にはできていたように思うのである。

 昔から、今日のように、客船の部分が曳船になって居ったのであるか、どうか、それ

は僕には何んとも言えない。しかし、曳船式ではなかったようには思う。

 僕はあの船には余り乗ったことがない。知って居ることがまことに少いのであるが、

鉄道馬車ができていても、それは極端に幹線だけであったのだから、あの川をば、例え

ば両国から言問まで、あの汽船で横ぎるとするならば、鉄道馬車で雷門まで行き、それ

から、竹屋まで歩き、渡船で向うへ渡るというのより余程足数が少くて済んだであろう

と思われる。費用も同額ではあったかも知れぬが、川蒸気の方が高かったことはなかっ

たろうと思う。

 朝吉原を出て、公園付近で食事をしてから、向島の方へ行く人々に取っては、吾妻橋

からあの汽船に依るのが一番便利であったろうとは、想像に難くない事柄である。

 今日から東京に永く住って居る人々であったら、大抵の人々があの汽船に就ては、

さまざまな記憶を持って居られるであろうと思わざるを得ない。

 斎藤緑雨の『ひかえ帳』の中に、次のような一項がある。

『もとより、途中の出来心なれども、試みにとその友に誘われて、いつなりしか壹銭が

ところをこれに乗りぬ。室内に座布団の配置してあるを見て、日本も関心に行届いて

来たと、友は肥太りたる体をむずと其上にすえしに、船の進行しはじめたる時、隅なる

男の手を差出して、布団代を頂きます。それはと今更退けもなり難くて、われとともに

三枚分は、甚だ割の高きことなりし』

 『壹銭がところ』というのは無論一区分の意味であることはいうまでもないであろ

う。緑雨の此の友というのは、緑雨の竹馬の友と云っていいくらいの上田万年氏である

らしく思われる。

 明治四十二年頃かと思うのだが、ある夏の午後、田中貢太郎君と一緒に両国からあの

船で千住まで行ったことがある。今日の白髭橋あたりかと思うのだが(勿論その時分

まだ橋はなかったと思う)、川のなかに蘆の繁っているところなどがあり、一帯に所謂

寂し味のある景色で、其のあたりが何とも謂えず心持がよかったことを今日も尚忘れ

得ないで居る。

 東京では、乗合馬車は早くから市内から勿論、中仙道、奥州街道などへ向けても、

開通して居ったというのだ。雷門から新橋まで二階づきの馬車が通っていたことがあっ

たという記録はあるのだが、明治十一二年頃には、もうそんな馬車は通ってはいなかっ

た。のみならず、所謂大通りを二階なしの普通の乗合馬車さえ通っていたことを僕は

目撃したことはないように思う。

 御成道即ち萬世橋外から、伊藤松坂屋のところまでの路はその頃は極く狭い路であっ

た。人力車が二台横に並ぶともう一杯になるであろうとさえ思われるくらいの細い路幅

であったので、あのあたりなどは、乗合馬車は到底通ることは許されなかったのであろ

う。御成道は特に狭い路であった。幕政時代には何か理由があってああいう風に狭く

してあった路であったかもしれぬ、と思われるくらいのものであった。

 筋違(すじかい)即ち、大凡萬世駅のあたりから、神田明神前、本郷通り、追分、

白山前などを経て、板橋へ通う乗合馬車は明らかに記憶して居る。随分車体は汚ならし

く、馬は瘦せていて、一寸危険を感ぜられるくらいに見えて、馬が暴れだして、加賀邸

前の薪屋の外の高く積んだ薪へ突き当って、薪の山が崩れたのを見たこともあるし、

また病馬であったがためか、路上で倒れて起き上らずに、人々がその始末に大騒ぎして

居るのを見たことがある。そんなようなためもあったのか、何うか、とにかく、今の

乗合自動車のように短距離の客は殆どなかったようであった。板橋で乗った客が大抵

終点の筋違まで行くという風であったのではあるまいかと思うのだ。御者の外に別当

(馬丁)が附いているように思う。その別当が、近頃まで豆腐屋の用いていたと同じ形

の喇叭を吹いて、通行の人々に注意を与えるのであった。乗合馬車は今日でも地方では

まだ残って居るところがある。乗合馬車の通う沼津あたりでさえも、一頭立ての乗合

馬車が見かけられるのであるが、昔の乗合馬車はそういう今日の乗合馬車よりもずっと

汚いものであった。

 橘屋円太郎という落語家があって、高座で喇叭を吹いて、その別当の真似をしたの

で、そういう早い時代の乗合馬車をば円太郎馬車と呼ぶようになったのだ。こんなこと

は当時のことを知って居る吾々に取っては、書くになぞ及ばない程明白なことであると

思うのだが、今日ではもうこんな事さえ知らぬ人が多くなった。現に先達てのこと、

ラジオを聴いて居るというと、何んとかいう若い咄家が、円太郎が鉄道馬車の馬丁の

真似をしたと話していた。円太郎馬車というのは、鉄道馬車よりずっと以前の、ずっと

粗雑の馬車のことを云ったものである。

 鉄道馬車は明治十六七年のものであろうかと思うのだが、それでも、二十三四年頃

は、新橋と品川の間は、路幅の関係であろうと思うが、鉄道馬車でなく、並の乗合馬車

が通っていた。けれども、その馬車でも、スプリングの具合、座席の固さなど、鉄道馬

車より余程粗雑ではあったが、円太郎馬車とは比較にならぬ程進歩したものであった。

 円太郎馬車の今一線は、花川戸あたりから宇都宮へ通うものであった。僕はこれは

見たことはない。明治四十二年頃から開通したという記録があるというのだ。東京から

日光へ行く人など此の馬車に依ったものであろうかと思う。

 伯爵金子堅太郎さんが僕の亡兄と一緒に、日光へ行って、寺の座敷を借りて、滞在し

ようとしたところが、一遍は承諾して置きながら、あとになって断るので、詰問の末、

寺から止宿者の届を警察へ出しに行くと、金子さんは福岡県士族、亡兄は高知県士族と

いうのであったので、西南役直後のことであったので、警察では眼を丸くして、なる

べくは、そんな者には座敷を貸さぬ方がよくはないかと、云ったので、和尚は驚いて、

断ったということが分って、亡兄などは契約法の講義じみたことまでやって、和尚を

痛めつけたという話を、金子さんが笑って話されたことがある。その時の旅行は、乗合

馬車によったのであったように聞いた気がするのである。

 鉄道馬車が柳原を浅草橋まで通るようになったのは、萬世橋、上野間(この間の路幅

は無論広げられたのだ)が開通してから可なり後のことであるのだが、その柳原浅草橋

間が開通した後であったか前であったか、今その点が記憶不明瞭であるが、赤塗りの車

体で、御者台の殆ど車の屋根位な高さのところにある乗合馬車が九段下から両国あたり

まで通っていたことがある。明治二十九年頃であったかと思う。

 円太郎馬車にしろ、鉄道馬車にしろ、何れも民衆的乗物であって、中等級の乗物は

人力車であり、高級乗物としては、雇馬車があった。つまり、円タク出現以前の雇自動

車の格であったのだ。そういう貸馬車屋は築地に一軒、鎌倉河岸に一軒あったかと

思う。此の高級乗物としての貸馬車は無論御者馬丁附きであって、大正になっても使用

されたのだ。貸自動車の出現まではその支配を続けた訳である。

 この貸馬車には僕は一遍しきゃ乗ったことはない。亡兄が死んだのは、明治二十一年

であったのだが、米国で客死したので、日本では遺髪で葬式をやったが、骨壺に入れ、

外箱に入れたその遺髪を僕が抱えて、谷中の墓地へ持って行く時に、親戚の豊川良平

が、

 『馬場はもう少し生きて居れば、無論自家用の馬車に乗れる男だ。どうだ、せめて

遺髪でも馬車に乗せて、墓地へ送ろうじゃないか』

 と云って貸馬車を呼んで、それへ僕等が乗り、遺髪を持って天王寺墓地まで行ったの

であった。大分薄汚れた車であったような気がする。円タクでも、今日では、ずッと奇麗な車がある。その当時では、そんな古ぼけた馬車でも、少なくとも十円ぐらいは取ら

れたのではなかろうかと思う。

 そんなことを思うと、今日の自動車は安いものである。時間を勘定に入れることに

すると尚一層安いものになる。 

 吾々から見ると、乗物は大変革を来たしたのは、自動車移入以後であって、一般に

その利沢が及んだのは、このところ精々十五年此の方ぐらいなものであろうと思う。

朝、東京を出て、箱根を抜け、富士の五湖を見、猿橋へ出て、夕方東京まで帰りつくと

いうようなことができようなどとは、大正の始めに死んだ老人などには思いも寄らない

ことであったのだ。

 旅行者のためには、自動車の出来たことは何よりも喜ばしい事だと思う。

 しかし、明治の交通機関としては、人力車が各階級の人々に対して、重大な働きを

なして居ったことは、此処にいうまでもないことで、この東洋、否、日本特有の交通

機関には実にさまざまな事件との交渉があり、連想があって、日本近代の交通物語に

於て、人力車の勤めた役割に言及しないのは、交通機関の物語としては全く不備な訳に

なるのであるが、これはゆっくり語ることにして、一旦此処で筆を擱くことにする。