馬場孤蝶「寄席の女」

                 

                  一

 近頃では、寄席へ出る女で、人気の凄まじい程有る女というのは聞かぬ。式多津とか

歌子というのは、少しは若い人の噂にはのぼるのではあるが、それを真打にしてやって

見たところで、幾らも客を呼べまいと思う。

 橘之助が真打でやって行けるのは、長年の功労の結果というに過ぎなかろう。

 僕の覚えて居るのでは、明治十五六年頃に、寄席へ出た岡本宮子というのが、非常な

人気があった。最早その時分二十を幾つか越した女であったろう。岡本浄瑠璃と云っ

て、新内を語って居た。何れかというと、新内もシンミリとしない方の語り方のもので

あった。謂わば、常磐津と新内の合の子のようなものであったように思うのだ。三味線

は、宮子の母親だという宮濱という四十を越した位に見える女が弾いて居た。一座は、

その宮子が真打で、桂才賀という老人の落語家と、小蝶とか云った女の手品師などが

出た。で、宮子が新内を語って了うと、その小蝶というのが、又出て来て、宮子と一緒

になって、所謂浮かれ節という、どど一その他の小歌を歌ったり、宮子が立って、踊っ

たりして、うち出しになるのであった。

 宮子は、少し凸額ではあったが、眼の涼しい、なかなか押し出しの強い顔立の女で

あった。声も可なりに立つのであった。この女が本郷の若竹などへ掛ると、随分入りの

あったものであった。

 地方から出て来る書生などで、この女に焦れて、可なりの金を注ぎ込み、それでも、

目的を達し得ずに発狂して了った者があるという話であった。

 宮子は、少し人気が落ちた時分になって、禽語楼小さんの妻になった。小さんと宮子

では大分年齢が違って居た。小さんの家内で居るうちから、左右(とかく)従順でなか

ったとかで、小さんの没後は、宮子は甚く落魄の生活を送って居たらしかった。

 最早十年程前の、或日の新聞は、宮子が脚気に罹って、本所か何処かで行き倒れに

なって居て、養育院へ収容されたということを伝えた。その新聞には、宮子のそれまで

の生活が、甚く悪いもののように書いてあった。けれども、ただ、器量をのみ頼りに

立って居た女の身だ。当人に口をきかせたら、そうまで落ち果てるには、当人相応の

已み難い理由があったのかも知れない。

 色香の栄華は、実にはかないものだ。此様な小芸人の一生の浮沈でも、しみじみ哀れ

な感を、吾々の心に喚び起すのだ。

 この女、今は、最早生きて居ないかも知れぬ。

                   二

 明治二十年以前の寄席は、落語の世界であって、円朝は元より、円遊のステテコなど

は、なかなか大勢の客を呼んだものであった。

 が、二十二年頃からの寄席は、所謂娘義太夫なるもので客を呼んだ。 

 ところで、伊東燕尾が妻の此勝と一緒に寄席へ出た時分から、娘義太夫の一座は最早

出来て居たようであったが、その全盛期に入り掛けたのは、二十二年頃からだと思う。

 竹本綾之助の出現は、その時代であった。その時分の綾之助は、如何にもいい声で

あった。吾々が初めて見た時分には、丁髷に結って居た。で、男だろうか、女だろう

か、と真面目に議論した人もあった位であった。中には、男だと思って、熱心に聞きに

行って居るうちに、女であることが知れて、大いに失望したという、薩摩の書生があっ

たという話もあった。

 綾之助のこの頃の芸は聴かないから知らぬが、昔の綾之助は、それ程上手ではなかっ

た。ただ声が好かっただけであった。

 けれども、その出現が、娘義太夫隆興の機運に乗じたものであったので、年は若し、

声は綺麗だし、顔立も好い方ではないにしても、悪い方ではないのであったから、綾之

助の掛る寄席は、何時も大入であった。

 綾之助の楽才は、美光ほどなかったのではなかろうか。況や呂昇には遠く及ぶまいと

思う。

                   三

 綾之助の時代_即ち明治二十二年から、明治二十五年まで_をば、娘義太夫全盛の

第一期とすれば、小清の東京の寄席へ現われた時分を第二期としなければなるまい。

 小清の語り物では、『鰻谷』を一番面白いと思った。戸川秋骨君も僕と一緒に小清を  

聴きに行った。吹抜で、小清の『野崎村』を聴いて、『野崎村』に関する感想文を

『文学界』に書いたことがある。僕は、小清の三味線の彼の低い調子が好きであった。

 小清の席には種の好い、騒がしくない客が可なりに入って居たようであった。

 僕が、小土佐を聴いたのも、その時分であったと思う。如何にも引き締まった、好い

姿であった。芸は、筋の好い芸だと思っていた。三年程前には、又二三度聞いたが、

なかなか好い語口になったと、感服した。

 瓢が、三福と云った時分に、五六回聞いた。すらりとした如何にも良い姿であった。

声を張って出す時に、顔を横へ向ける様子が、未だ眼に残って居る。その時分ですら、

語り振りは渋味のある方に属して居たと思う。

                   四

 その時分には、寄席は、何様なものが掛っても、可なりの入りが有ったものだが、

この頃は、一体に、何処も不入りのように聞いて居る。吾々、田舎者が、大手を振って

歩ける東京になって了っては、又、おさんどんさえ三越へ買い物をし度がる世になって

は、寄席へ出る芸人の多数は、時代違の者になって、寄席は、幾らか前代の趣味を解す

る少数の人々の行く娯楽場になって了ったのだ。 

 本当を云うと、娘義太夫の全盛期というのが、寄席の堕落の第一歩であったのだ。

それだのに、今日では、その娘義太夫さえ、ある人々に向っては、高尚すぎることに

なって了った。従って、娘義太夫にも下手が多くなって居る。

 今の分では、義太夫も、落語も、講釈も、合併してしまって、巧く興行して行くより

外為方が無かろう。

 所で、今後、寄席へ、相当の芸の、好い器量の、若い女が出るか、何うかということ

になると、これは、何うも覚束ないことだ。

 少し渋皮が剥けて居て、雑誌の拾読みでも能きるのであったら何の芸も能きぬもので

も、明日から直ぐ女優という有難い芸人になれるのだ。いや、当人の勇気次第でもっと

金になる商売もあるのだ。

 之に反して、寄席では、何等かの芸をしなければならない。それには、少しは修業が

要るのだ。一方に於て、前記のような、虚栄心を満足させ得べき方(みち)があり、金

の入る方がある以上は、何を苦しんでか、そんな修行を為る者があろう。何か、特別の

縁故、若しくは、事情のある者に非らざる限り、寄席芸人になる女はなかりそうだ。