樋口一葉「別れ霜 二」

                                   海、海              

                  四

 他人はともかく、あなただけは高の心をご存じだと思うのは空頼みだったのですか、

情けないお言葉を。あなたと縁が切れて生きていける私だと思うのですか、恨みといえ

ばそのあなたのお心が恨みです。お父様の悪だくみを責められたらお返事もできません

が、その悔しさも悲しさもあなたに劣りません。人知れず布団の襟を濡らすのはなぜだ

とお思いですか、涙に色があるならばこの袖一つ見ていただけば疑いは晴れましょう。

一つ穴のムジナとはあまりの言葉、想像してください、つながれてこそいませんが身は

籠の鳥と同じ、風呂屋に行くのも稽古事にも一人歩きを許されないのでお目にかかる

折りがないのです。手紙も出したいのですが居所を人に聞くこともできず心で泣いて

ばかりいましたのに薄情者、義理知らずといわれるのも道理かもしれませんがご無理

です。私一人に罪があるのなら打たれも突かれもしましょう。せめてお話しさせてくだ

さいと涙ながらにすがる袂をぴしゃりと払って、お高殿、お言葉だけは嬉しいですが

それが本当かどうか、心まで見る目を私はあいにく持っていません。お父様の心もだい

たいわかっていますから、甲斐性なしの芳之助のことなど嫌になって縁を断ち切るため

に策略し、罠にかかった私たち獣を手を打って笑って眺めていらっしゃるのに何の涙で

すか。お化粧が剥げては気の毒ですよ。もっとよい条件に乗り換える話も内々にあるの

でしょう、その家蔵持参の業平(色男)にお見せするお顔を私などに見せてはもったい

ない、どいてください、見たくもないとつれなく後ろを向いた。憎い言葉の限りを並べられるより悔しいのは芳之助の解けない心、胸の内を表せないのが恨めしく、あなた

こそ何とも思わないでしょうが、物心を知り始めた頃からずっと苦労をして、身だしな

みに気を付け、勉強をしたのはあなたに気に入っていただきたかったから。心のすべて

をあなたのために使って、友達と遊んだりお芝居に行くのが嫌いだと知れば、誘われて

もお断りしてひねくれ者だと笑われたのは誰のためでしょう。幼いころとは違って、

仲はよくても恥ずかしさが盾になって思うことを思うように言えなかったのを、私の

思いが浅いとお思いですか。たとえどのようなことがあっても敵(求婚者)に笑顔を

向けるものですか。山ほどの恨みを受ける理由があれば仕方ありませんが、あなたに

愛想をつかしての策略などというのはあんまりです。親につながる子も同罪だと覚悟は

していますが、そのようなことだけはおっしゃらないでください。お父様にどのような

恨みがあっても、心の変わらない私こそあなたの妻ですのになぜとげとげしく他人扱い

するのです、お心に聞こえないのですかと涙を流しながら袖を引いて止めたが、羽織の

裾を振り払い、何をするか、邪魔だ、私はあなたの手遊びに付き合うことも話し相手に

なるのも嫌だ、あなたは大家のお嬢様だからお暇もあるだろうが、その日暮らしの身に

は時間が惜しい、だれかお相手を探しなさいと振り払うと、またすがって芳さま、それ

は本当ですかと見上げる顔をにらみ返して、嘘偽りはあなた方がなさること、義理人情

のある世ならばまさかと思うような、正直者が飼い犬同様の人でなしに手を噛まれ、

暖簾に見る恥(破産)は誰のせいなのですか。もとをただせば同じ根の、親子同然の仲

を知らぬという道理はない。知っていようがいまいがそれはあなたの勝手、敵の子を妻

にも嫁にもできません、言うこともなく聞くこともない、恨みつらみを並べたらきりが

ないので言わぬが花です。あなたは盛りの身で、春めくのも今でしょう、こもを被りな

がら(乞食姿で)お見送りしますと、言葉は丁寧でも意気込み荒く、歯の音をきりきり

と食いしばり、釣り上げる眉の恐ろしさ。散髪したての白い顔に赤みがさしたいつもの

優しい顔ではない。止めても振り切る袂、「もう少しだけ」と詫びながら、恨みながら

取り付く手先を「うるさい」と蹴られ、蹴倒されてわっと泣いた自分の声が耳に入って

起き上がったのはどこだろう。いつもの自分の部屋、伏していた机の上に乗るのは湖月

抄の孤蝶の巻(源氏物語第24帖)、目覚めても思い返す夢、夕日が傾く窓のすだれが

風にあおられる音も淋しい。

                  五

「お高様お珍しい、今日のお出ではどういう風の吹き回しですか、一昨日の稽古も

その前にもちっともお顔をお見せにならずにお師匠様も皆様も大層心配したのですよ、

日がな一日お噂をしていました」と嬉しげに出迎える稽古の同級生の錦野はな子という

医学士の妹。博愛仁慈の聞こえ高い兄に似たのか温厚である。何某学校通学中は紅一点

と称えられた根上がりの高島田に被布姿の二十歳だが、まだ肩上げの取れないかわいら

しい人柄である。

「お高様ごらんなさい、年寄りのいない家のらちのなさを。兄は兄で男ですから家の

ことはちっともしませんので私一人が奮闘しても埃だらけです」と笑いながら座布団を

勧める。「おかまいなく」と沈んだ声で、お高はもやもやした胸の内を打ち明ける相手

もなく、仲のよい友達はいてもそれは春秋の花紅葉(そのときだけのこと)、挿してい

る対の簪は偽物ではないが、当座の付き合いは幼稚なものだ。その中で知恵広大と呼ば

れているのはこの人なので、その知恵にすがろうかと思って来たがやはりまだ幼い。

しかし姿からはわからないのが人の心なので、相談して笑いものにされるのも恥ずかし

い、どうしようかと思いながら、ふと兄弟のいる人がうらやましくなり、

「お兄様はお優しい人とか、羨ましいわ」と言うと、

「これだけは私の幸せ、でも喧嘩することもあるのですよ。無理なお小言を言われて

腹の立つこともあるけれど、すぐに忘れてしまうのでなまこのようだと笑われます。

この頃は施療(貧しい人に無料で治療をすること)に暇がなくてお芝居も寄席もとんと

ご無沙汰、そのうちお誘いいたします、兄はあなたを」と言いかけて笑い消した言葉、

何だかわからないが、

「施しとはお情け深いですね、さぞかわいそうな人もいるのでしょう」と、思うこと

があるので察しも深い。はな子は煙草が嫌いと聞いていたが、傍らの煙管を取り上げて

一服した後、

「それはもう様々です。つい二日ばかり前も極貧の裏長屋の人が難産で苦しんで、兄の

治療で母子ともにご無事でしたが、赤ちゃんに着せるものがないと聞いては平気では

いられませんから、その夜通しで針仕事をして着る物二つ贈ったのですよ」と得意顔を

したので、徳は表さないのがよいというのに、どういう考えかしらと相談する気がなく

なった。はな子のいろいろな患者の話の中に昨日往診した同朋町という名が出て、もし

やと聞いていると芳之助のいる所に間違いはなさそうだった。

 それほどまでに貧しいところなのか、まさかとは思ってはいたが本当ならどうしよ

う、詳しく聞いてみたいと思っても心に咎めがあって返事もあやふやに聞いている。

「お高様ごゆっくりしていってください、今に兄も戻りますから。それにお目にかけ

たいものがあるのよ、いつか話した兄の秘蔵の画集、いえあなたにお見せするのなら

褒められこそしても怒られません、お待ちください」

ともてなす。なかなか帰れなくなり、話をすれば枝葉が広がっているうちに花子は、

「こう言ってはおかしいかもしれませんが、あなたは一人っ子、わたしも兄一人しか

いません。女のきょうだいがいないと淋しいのは一緒で、何かにつけて心細いのです。

お不足でしょうが妹にしてください」と何か含みのある言葉。

「それは私も願ったりですよ」と言う言葉の終わらないうちに、

「ではお話があるのです、お聞きくださいますか」とさらに問いかけて、

「お高様、あなたの胸一つ伺えば済むのです。ほかでもなく、本当のお姉様になって

くださいますか」 ときっぱりと聞かれて、

「ご冗談を、わたしこそ本当の妹と思っていますよ」というのをさえぎって、

「ではまだご存じないのですね、お父様と兄との間に話が成り立って、あなたさえ

ご承知なら明日にも本当のお姉様になれるのですよ。おいやでしたら仕方ありません

が」と優しく言うのが薄気味悪い。嘘か本当かあまりのことに乱れる心を何とか静め

て、「はな子様、おっしゃっていることがまだ私にはわかりません。お答えも何もまた

追ってしますので今日はもう帰ります」と立とうとすると強いても止めず、

「お帰りですか、よいお返事をお持ちしています」と玄関先に送り出した。

さようならと言って乗った車が走り出した途端、車夫の掛け声に飛びのいた男がいた。

あれはどこから薬を取りに来たのだろう、哀れな姿だと思って見返ると向こうも見返っ

た。「あ、芳様」言葉も出ないうちに車はどんどん轍の跡をつけて去って行く。

                 六

 中ガラスの障子越しに中庭の松が風情ある姿を見せ、絹布団のこたつにもぐって美人

のお酌に舌鼓、門口を走る樽拾い(得意先の空いた酒樽を集める)は、どこの小僧だろ

う、雪の中の景物としておもしろい、五尺も六尺も積もって雨戸が開けられないほど

降らせて常闇の長夜の宴を張ってみたいともつれた舌でたわごとを言う酔眼にも六花の

眺めに区別はなかろうが、身に沁みる寒さは降られた者にしかわからないことだった。

 薄寒いなどといっているうちに明け方からの薄墨色の空模様、頭痛持ちの天気予報は

間違いなく、北西の風が吹き出した夕暮れにかけて鵞毛か柳絮か(綿毛=雪)ちらちら

と降りだしてきた。日暮れの鐘が響いて、ねぐらに帰る烏たち、今夜の宿の侘びしさ、

空蝉(遊び人)の夢の見始め、待合の奥二階で爪弾きの三下がり(遊女)、簾から漏れ

る低い笑い声、思わず止まる通りがかりの足、煩悩の犬のしっぽ、しまったと飛び起き

て、畜生とはまったく踏みつけの言葉である。(煩悩につられて散財した)

 我がものと思えば重くもない傘の雪、往来も多くない片側町の薄暗い中、悄然として

いる提燈の影が風に瞬くのも心細げな一輌の車がある。安い借り賃が知れる塗りの剥げ

た車体、破れた幌、夜目ならまだしも昼には恥ずかしい古毛布に乗り手の質もわかると

いうもので幾らも取れず、米の代金にもなるのかどうか。九尺二間の煙(裏長屋の煮炊

き)の頼みの綱、その主は力もおぼつかない細い体に車夫らしくない人柄、華奢という

言葉が誉めたものではない力仕事の世界に生まれたとは到底思えないが、履歴を知りた

いという人もいないので口を開くこともない。ため息をかみしめる歯の根を寒さに震わ

せながら仰いだ顔を見るとなんと美しい、色は黒くなってはいるが眉目優しく口元は

柔和、年はようやく二十歳か二十一か、継ぎはぎの筒袖着物を絹物に改めて、帯に金鎖

をのぞかせたきらびやかな姿にしてみたい。流行りの花形役者も及ばない大家の若旦那

が一番似合いの役回りだ。それほどの人品を備えながら身に覚えた芸もないのか、引き

上げる人もいないのか哀れなことだと見られるが、その心情は全くわからないもの、

美しい花にはとげがある。柔和な顔にも意外な言動があるかも知れず、恐ろしいと思え

ばそんなものである。贔屓目には雪中の梅、春待つ間の身過ぎ世過ぎ、小節に関わらな

いのが大勇だ、辻待ちの暇に原書でもひも解いていそう(学生のアルバイトの意味)だ

と色眼鏡をかけて見る世の中、その目に映るのは当人の眼鏡なりである。

 夜はまだ更けないが降りしきる雪に人足もだんだん絶えて、そちらこちらの商家も戸

を下ろし始めた。遠く聞える按摩の声、近くに交じる子犬の声、それだけでも淋しいの

に道端の柳にざぁっと吹く風に舞う粉雪、物思い顔の若者が襟のあたりが冷やりとして

はっと振り返ると顔に当たる瓦斯燈の光が青白い。通る人もなく乗る人はなおさらいな

いのに待っているのは馬鹿らしいとよそ眼には思われるが、まだ立ち去りもせずに前後

に目を配るのは誰かを待っているからだろう。凍る手先を提燈の火で温めてほっと一息

して力なく周りを見回した。また一息、深い憂慮の淵に沈んでいるのか、目をつぶり額

を組んだ腕に乗せて、ここに車を下ろしてから三度目の鐘を聞いた、今こそと決心して

立ち上がったがまた懐に手を入れて思案した。「ああ困った」と思わず口から漏れて、

また元の姿勢に戻るが舌打ちの音が聞こえ続ける。雪はいよいよ降り積もって止む気配

は少しも見えない。人通りなどとてもないと落胆している耳に嬉しい足音、ありがたい

と見ると、角燈の光を雪に映した巡回中の警官が怪しげにこちらを見ながら通り過ぎて

行った。さすがに性根尽き果てて呆然と立ち尽くしていた時「もう少し行ってみましょ

う」という話声がして人影が目に映った。天の与え、やっと人が来た。逃すまいと勇み

立って進むと、なんということ過ぎたるは及ばざる二人連れだった。車は一人乗り。

 

 長々しくて疲れるな…でも一葉の心が垣間見えるので必死で訳している。