樋口一葉「うつせみ 二」

                   四

 今日は用事がないとのことで、兄は終日ここにいた。氷を取り寄せて雪子の頭を冷や

す看護の女中に替わって、どれ少し自分がやってみようと無骨らしく手を出すと、恐れ

入ります、お召し物が濡れますよというのを、いいさ、まずやらせてみなさいと氷袋の

口を開いて水を絞り出す手つきの不器用さ、雪や少しはお分かりか、兄様が冷やして

くださっているのですよと、母が親心で声をかけるが、何も聞き分けられずに目を見開

きながら空を眺めて、ああきれいな蝶がと言いかけて、殺してはいけません兄様、兄様

と声を限りに叫ぶ。どうした、蝶などいないぞ、兄はここにいて、殺しはいないから

安心して、よいか、見えるか、え、見えるか、兄だよ、正雄だよ、気を取り直して正気

になって、お父さんお母さんを安心させてくれ、少し聞き分けてくれよ、お前がこの

ような病気になってからお父さんもお母さんも一晩もゆっくりとお休みになったことは

ない、疲れてやせて介抱しているのを孝行者のお前がどうしてわからないのだ、いつも

道理のよく分かる人ではないか。気を静めて考え直しておくれ、上村のことは今更取り

返せない事なのだから、後でねんごろに弔って、お前手づから花を手向ければ、あいつ

も快く眠ることができると遺言にもあったというではないか。あいつは潔くこの世を、

お前のことも一緒に思い切ったのだから決して未練は残してはいなかったというのに

お前がこのように心を取り乱して、ご両親を嘆かせてはおかしいではないか。あいつに

対してお前は無情だったかもしれないが、あいつは決して恨んではいなかった。あれも

道理を知っている男だったろう、な、そうだろう、校内一であるとお前もいつも誉めて

いたではないか。そんな人なのだから決してお前を恨んでは死ぬはずがない。憤りは

世間に対してで、皆それを知っているし、遺言にも明らかなことではないか。考え直し

て正気になって、今後のことはお前の心に任せるから思うままに生きていけばよい。

ご両親がどれだけ嘆いておられるか考えて、気を取り直しておくれ。いいか、お前が

心から治そうと思えば今にも治せるのだ。医者にも薬にも及ばぬ、心の居所を確かに

して治っておくれ。なあ雪よわかったかと聞けば、ただうなずいてはいはいと言った。

 女中たちはいつしか枕元を遠慮して、周りには父と母と正雄がいるばかり。今言った

ことが解ったのか解らないのか、兄様、兄様と小さな声で呼ぶので、何か用かと氷袋を

引き寄せて近づくと、私を起こしてください、なぜか体が痛いのですと言う。それは

いつも気が立つと駆け出して大の男に捕まえられて、振り放そうとものすごい力を出す

のだからさぞかし体も痛むだろう、生傷も所々にあるではないか。それでも体が痛いと

わかるのかと甲斐のないことを両親は頼もしがった。

 お前を抱いているのだどなたかわかるかと母親が聞くと、すぐに兄様でございましょ

うと言う。それがわかれば心配はない、今話したことを覚えていますかと聞くと、知っ

ております、花は盛りに…などとまたあらぬことを言い出したので一同顔を見合わせて

情けない思いだった。

 しばらくして雪子は息の下からとても恥ずかしそうな低い声で、お願いでございます

ので、そのことは言わないでください、そのようにおっしゃられても私にはお返事の

いたしようがありませんと言い出したので、何かあったかと母が顔を出すと、あ、植村

さん、植村さんどこへおいでになるのですかとはね起きて、不意のことに驚く正雄の膝

を突き飛ばして縁側に飛び出したので、それっと太吉、お倉などが勝手元から飛び出し

てきたが、それほどには行かずに縁側の柱の下にぴたりと座って、堪忍してください、

私が悪かったのです、初めから私が悪かったのです。あなたは悪くない、私が、私が

言わなかったのが悪かった。兄と言ってはおりましたけれど…。むせび泣く声が聞こえ

始め、続く言葉も何とは聞き取れず、半分上げた軒端のすだれが風に鳴る淋しい夕暮れ

である。

                  五

 雪子が繰り返す言葉は昨日も今日もおとといも、三月より以前から同じことばかりで

ある。唇に絶えないのは植村という名前、許してください、学校、手紙、私の罪、後か

ら行きます、恋しい人、それらの言葉を順序なく並べて、身はここにあっても心はもぬ

けの殻になっているので、人の言うことを聞き分けられるわけもなく、楽しげに笑うの

は無心だった昔を夢みてのことだろう。胸を抱いて苦悶するのはやるかたのない、当時

のことがよみがえるからだろう。

 痛ましいことだと太吉は言い、お倉も言う。もののわからないご飯炊きのお三ですら

お嬢様に罪があるとは言わない。黄八丈の、袖の長い書生羽織を召して、品よい高髷に

桜色を重ねた白の根掛けに平打ちの銀の簪をあっさりと挿して、学校へ通う姿が今でも

目に残っている。いつ元の通りに治るのだろうか、植村様もよいお方だったのにとお倉

が言えば、あんな色の黒い無骨な人、学問はできたとしてもうちのお嬢様とは釣り合い

ません、私はまったく褒めませんよとお三が力む。お前は知らないからそんな憎らしい

ことを言うが、3日もお付き合いをしたら植村様の後を追って三途の川までも行きたく

なりますよ、番町の若旦那を悪いというわけではないが、あの人とは質が違って、何と

も言えぬよい人だった。私でさえ植村様がああなったと聞いた時にはおかわいそうにと

涙がこぼれたもの、お嬢様の身になったらさぞおつらいことだろう。私やお前のような

おっちょこちょいならことはないが、普段慎んでいるだけに身に沁みることも深いだろ

う。あの親切で優しい方をこう言っては悪いけれど若旦那さえいなかったら、お嬢様も

病気になるほどのご心配はなかったのに、それを言えば植村様がいなかったら天下泰平

に納まったものを、ああ、浮世はつらいものだね、何事もあけすけに言ってすませる

ことができないからと、お倉はつくづくままならぬことを残念がっている。

 勤めある身なので正雄は毎日訪れることができず、三日おき、二日おきに夜な夜な車

を柳の前で乗り捨てる。雪子は喜んで迎えるときもあり、泣いて会わないときもあり、

幼子のように正雄の膝を枕に眠るときもあり、誰が給仕をしても箸も取りたくないと

わがままを言っても、正雄に叱られて一緒にお膳を取っておかゆをすすることもある。

治ってくれるか、治ります、今日治ってくれるか、今日治ります、治って兄様のお袴を

仕立ててあげます、お召も縫ってあげます、それはかたじけない、早く治って縫って

くれよと言えば、では植村様を呼んでくださいますか、会わせてくださいますか、うむ

会わせてやる、呼んで来よう、早く治ってご両親を安心させてくれ、よいかと言えば、

はい明日は治りますとこともなげに言った。

 言ったことを頼みにしていたわけではないが、翌日日暮れを待たずに車を飛ばせて

来ると、容体が急変し何を見るのも嫌だと人を見るのを厭い、父母の兄も女中たちも

近づけずに、知らない、知らない、私は何も知りませんと泣くばかり。広い野原に一人

いるかのようなとめどない嘆きに涙を禁じ得ない。

 急に暑くなった八月の半ばより、狂乱はさらに募って人も物も見分けられなくなり、

泣く声は昼夜絶えず、眠ることもなくなったので、まぶたは落ち込み形相すさまじく

この世の人には見られなくなった。看護人も疲れ、雪子の身も弱った。昨日も今日も

植村に会ったと言う、川を隔てて姿を見るばかり、霧が立って朧げに明日、明日と

言うほか何も言わない。

 いつか正気に返って夢から覚めたように、父様母様と言うこともあるのではないか

と、おぼつかなくも一日二日と待っている。

  空蝉は 殻を見つつもなぐさめつ 深草の山 煙だにたて

  (亡くなっても姿があれば慰められたのに消えてしまった、せめて煙だけは

   いつまでも名残に立っていてほしい)

 せめて門の柳に秋風が立たないでほしいものだ。

(時間が止まってほしいとのことか、飽きに掛けて待つことに飽きるということか)