樋口一葉「闇桜」

 隔てというものは間にある建仁寺垣(竹の垣根)に譲って、共同で使う庭の井戸の水

の清く深い交わり、軒端に咲く一本の梅の木が両家に春を知らせ、香りを分かちあう

中村と園田という家があった。園田の主人は一昨年亡くなり、相続は良之助という二十

二歳の若者、何某学校の学生だとか。中村の方には娘がただ一人、息子もあったが早世

してしまったので一粒種として寵愛される手中の玉、咲き始めた花にまだ吹いてもいな

い風まで嫌い、願うのは鶴の寿命のように長くあれと千代と名付けた親心。栴檀の双葉

(早くから香る)のように三つ四つの頃から、行く末はどれほどになるかと世の人から

褒められた姿は、雨を誘う弥生の山の桜のつぼみにたとえられ、盛りはいつかと待たれ

るが、いざよう(ためらう:十六夜の月は遅れて出ることから)のもかわいらしい十六

歳、高島田に隠れる優しいなまこ絞り(の手柄)の紅のよう(紅は園生に植えても隠れ

なし:すぐれたものはどこにいても目立つ)な中村のお嬢さんと、知らない人にまで噂

されるので美人とは面倒なものだ。

 習慣とはおもしろいもので、北風の空に凧をうならせ、電信柱が邪魔だった昔は昔の

ことだと思っても、良之助がお千代に向かう時は、かつての雛遊びの気持ちが改まらず

に、改まった姿かたちも気に留めずに良さん、ちいちゃんと他愛もない談笑から果ては

喧嘩の糸口を引き出して、もう来ないでください、何しに来るものかお前こそ、と気ま

ずくなって顔を合わせなくなっても二、三日で「昨日は私が悪うございました、これか

らはあんなわがままは言いません、お許しください」とあどけなく詫びられてはさすが

におかしくなって解けずにはいられぬ春の氷、いや僕こそ悪かったと終わるのだった。

 妹というものの味を知らないがこんなにもかわいいものか、満面の笑顔で袖を引っ張

って、「良さん夕べは嬉しい夢を見たのですよ、お前様が学校を卒業されて、何という

お役かはわかりませんが、山高帽子がご立派で、黒塗りの馬車に乗って西洋館に入って

いきました」と言うので、「そんな夢は逆夢だろう、馬車にでも轢かれはしないか」と

大笑いすると、美しい眉をひそめて「気になることをおっしゃって、今日の日曜はもう

どこへも行ってはいけません」などと、今の世の教育を受けた身にふさわしからぬ言葉

も本当に大事に思ってのこと、こちらに隔てがなければあちらにも遠慮がなく、呉竹の

憂き(浮世の悩み)ということは二人の仲には、葉っぱの先に置く露ほどもない。

 笑って暮らす春の日のまだ風の寒い二月半ば、梅を見に行こうと夕暮れに摩利支天の

縁日へ。連なる袖も暖かそうに見える。「良さんお約束のものを忘れては嫌ですよ」

「ああ大丈夫、忘れはしない、だけどコーツ(?)と何だったかな」「ほらそれだも

の、出がけにあれだけお願いしたのに」「そう、覚えているよ八百屋お国のからくりが

見たいと言ったんだっけ」「あら嘘ばっかり」「それじゃあ丹羽の国で生け捕った荒熊

でございの方かい」「どうでもいいわ、私はもう帰ります」「ごめん、ごめん、今のは

全部嘘だよ、中村の御令嬢千代子さまとも呼ばれる人がそんな注文するわけない、良之

助が確かに承ったのは…」「もうけっこうです、何もいらないわ」「そんなに怒っては

困るよ、喧嘩しながら歩くと道行く人が笑うじゃないか」「だってあなたったらあんな

ことおっしゃるのだもの」「だからごめんと言っているじゃないか、おや話している

うちに小間物屋の前を通り越してしまった」「あらどうしましょう、まだ先にもあるか

しら」「さあ、存じません、たった今何もいらないと言った人はどこに行ったのかな」

「もうそれは言いっこなし」と言ったり止めたりの一筋道、横町の方には植木が多い、

こちらへと呼べば走り寄る塗下駄の音がからりころりと鳴る。琴弾く瞽女は今の世の

朝顔か(浄瑠璃朝顔日記の盲目の琴弾き)。粟の水あめをどうぞとゆるやかに甘く誘う

隣に、厚焼きの塩せんべいの堅さを売りにした店が並ぶのもおかしい。「千代ちゃん

ちょっと見たまえ右から二番目のを」「まああの紅梅は素敵ね」と熱心に眺めていると

後ろから「中村さん」といきなり背中を叩かれた。何かと振り返ると束髪の集団、何と

思ったか「お仲のよいこと」と無遠慮な一言は誰の唇から漏れたのか同じ言葉と笑い声

を重ねて、夜風に残して走り去ったのを、千代ちゃん何だいあれは、学校の友達かい、

ずいぶん乱暴な連中だなあと呆れて見送る良之助の横でお千代はうつむいて気遅れした

様子。

 

 昨日まではどこかに収まっていた心が、はかなくも動き始めるともう止めることは

できない。怪しく迷う闇の中、色なき(なにげない)声が身に沁みて、思い出すと身が

震え、その人が恋しくなると同時に恥ずかしく、きまり悪く、恐ろしく、ああ言えば

笑われるのではないか、こう振る舞えば嫌われるのではないかと、軽い返事すらはっき

りと言うことができず、いじる畳の塵よりも山と積もった思いの数々、会いたい見たい

とあけっぴろげに言った昨日の心は浅かった、その自分の心を咎めてもうお隣とも言わ

ず良様とも言わず、言わないからこそ苦しい、涙しなくばという唐ころも、 

   君恋ふる涙しなくは唐衣 胸のあたりは色もえなまし

    あなたが恋しくて流す涙がなかったら、胸のあたりが燃え上ってしまうだろう

胸のあたりが燃えるようで夜通し眠れず、思い疲れてとろとろとすれば夢に見るその人

は優しい手で背中を撫でながら「何を悩んでいるの」と顔をのぞく、あなた様のせいで

すと口元まで出かかっても、起きている時の心通りに言い出すこともできずにうつむけ

ば「隠すなんて隔てがましい、これはたぶんどこかで見た誰かわからない人に恋をして

いるのだな、うらやましい」などと憎らしくも知らん顔で恨みを言う。「ほかの人を

恋するくらいなら悩みで瘦せはしません、御覧なさい」と差し出す手を軽く押さえて

にこやかに「では誰なの」と聞かれたので答えようとすると、暁の鐘が枕に響いて目覚

めるしかない思い寝の夢だった。鳥の声がつらいのはきぬぎぬの空(共に過ごした翌朝

の別れ)ではない、名残惜しいあまり心地がいつもと違って「今朝はどうしたのです、

顔色が悪いですよ」と尋ねる母は何も知る由もないが、顔が赤くなり心苦しい。

 昼は手すさびの針仕事に乱れ乱れる心を縫い留めて、今は何も思うまい、思ってなら

ない恋かそうではないか、言い出してはねつけられたら恥ずかしくて二度と会う顔が

ない、妹と思ってくれるからこそ隔てなく愛してくれるのだ。終の寄る辺と定める人に

どのようなことを望んでいるのだろう、それも道理、あなたが妻と呼ぶ人は天下の美を

尽くして、音楽も文学も備わった素晴らしい人を並べてみたいと私でも思うのだから、

ご自身はなおさらだろう、及びもつかないことを持ち出して今までの仲が疎くなったら

どうしよう、それこそ悲しいことだから思うまい、思うまい、何心なく兄様と親しめば

憎まれないだろう、よそながらやさしい言葉を聞くだけがせめてもと潔くあきらめなけ

れば、と何事もないように装う頬に涙が伝って思案のよりが戻ってしまった。

 それにしてもあの優しさが恨めしい、冷たくされたならこんな思いはしなかった、私

の罪か人の咎か、思えば憎いのはあなた様、声を聞くのもいや姿を見るのもいや、見れ

ば、聞けば思いが増して訳もなく胸を焦がす、恐れ多いがなんでもよいから腹を立てて

付き合いを断ってくれたら私もなおもは思うまい、願うのもつらいけれど火と水くらい

に仲が悪くなったら心安らぐだろう、今日からはお目にかからず話もしないことにしよ

う、それがお気に障ったら本望だと膝に突き詰めた物差しを緩めた。と同時に隣のその

人の声が聞こえると決心はゆらぎ、今まで何を思っていたのだろう、会いたいという心

でいっぱいになったが、心は心の外に友(自分の心をわかるもの)はない。

   思ひいれば人も我が身もよそならず 心の外の心なければ

     深く思うと人も自分と変わりないようだが、自分と同じ心はないものだ

                       こんな感じかと思うがわからない

良之助の目には何の色も映らず、愛らしいと思ってくれるほか一点の濁りもない、私が

恋する人がこの世にいるとも知らない、知らなければ淋しさを分かち合うこともない、

楽しいことを楽しそうにしている淡泊な男心に差し向っても何も言えることはない。後

の世はつれなく、我が身は恨めしく、春はどこか桜ともいわずに垣根の若草だけが萌え

ている(望みのない恋をする自分が恨めしい、かなわない思いに胸を燃やしている)。

 

 「ちいちゃん今日は少しはよいか」と二枚折りの屏風を押し開けて枕元へ座る良之助

に乱れた姿が恥ずかしく、起きようとついた手が痛ましく痩せてしまっている。「寝て

いなくてはいけないよ、病気に失礼も何もあったものではない、それとも少し起きて

みるつもりなら僕に寄りかかるといい」と抱き起こすと居住まいを正して、「良様学校

が試験中だというではありませんか」「ああそうだ」「それなのに私の所へばかり来て

よろしいのですか」「そんなこと気にすることはない、病気に悪いよ」「だって済まな

いのですもの」「済むも済まないもない、そんなこと気にするより一日でも早く治って

くれるほうがいい」「ご親切にありがとうございます、でも今度はもう治るまいと思い

ます」「またばかなことを言って、そんな弱気だから病気がいつまでも治らないのだ、

君がそんな心細いことを言っていてはお父さんやお母さんがどんなに心配するかしれな

い、孝行な君にも似合わないよ」「でもよくなるはずがありませんもの」とはかなげに

言って見つめるまぶたに涙があふれた。ばかなことをと口では言ったが、難しいとは

誰もが言うところ、かわいそうに一日ばかりの間に痩せも瘦せて、方えくぼの愛らしか

った頬はこけ、白い顔は透き通るほどになり、散りかかった幾筋かの髪は元のまま濃い

が、油気のない痛々しさ。自分でない誰が見ても断腸の思いをするだろうと限りなく心

が乱れる。忍草小紋の萎えた着物を着て、薄紅のしごきの帯を前に締めた姿をあと幾日

見られるだろうか、長年毎日のように片時も離れたこともなく睦みあっていたのになぜ

心の底が解らなかったのか、小さい胸に今日までの思いはどのくらいだったのだろう。

昨日の夕暮れお福が涙ながらに話すには、熱の高い時に絶えず自分の名を呼んだとか、

病の元はお前様ですと言われるのも道理、知らなかった自分が恨めしく、言わない君も

恨ましい。今朝見舞ったときに痩せて緩んだ指輪を抜き取ってこれを肩身と思ってくれ

たら嬉しいと心細げにほほ笑んだその心をもう少し早く知っていたら、ここまで衰えさ

せなかったものをと、自分の罪が恐ろしくなりながら見ていると、良さん今朝の指輪は

はめてくれましたかという声の細さ、答えは胸に迫って口に上がらず、無言で差し出す

左の手を引き寄せてじっと眺めていたが、私と思ってくださいと言うこともできず涙を

ほろほろと流しながら、そのまま枕に突っ伏してしまった。「ちいちゃんひどく悪いの

かい、福や薬を飲ませてくれないか、どうした、顔色が大変悪くなってきた、おばさん

ちょっと」という良之助の声に驚かされて隣の部屋で祈っていた母も、水を汲みに流し

へ行っていたお福もあわただしく枕元に集まるとお千代は閉じていた目を開き「良さん

は」「良さんはお前の枕元にほら、右のほうにいらっしゃるよ」「お母さん良さんに

お帰り願ってください」「なぜですか僕がいては不都合ですか、いても悪いことはない

でしょう」「福やお前からも願っておくれ」「お嬢様何をおっしゃいます、今まであれ

ほどお待ちになっていたのにそんなことを、ご気分が悪いのならお薬を召し上がれ、

お母様ですか、お母様は後ろに」「ここにいるよお千代や、お母さんだよわかるかい、

お父さんも今お呼びしたからさあしっかりして薬を一口おあがりなさい、え、胸が苦し

い、そうだろうまあひどい汗、福や急いでお医者様へ、お父さんもそこに立っていらっ

しゃらないでなにかしてやってください、良さんちょっとその手ぬぐいを、え、良さん

には失礼だが帰ってほしいと、ええそう言いますよ、良さんお聞きの通りですから」と

母は気も狂わんばかり。

 娘は一言ごとに呼吸が迫り、みるみる顔色が青くなって露の玉の緒(はかなく)今夜

にもと思うので良之助は立ちたいとは思わなかったが、臨終の際にも心遣いをさせまい

としていることがいとおしく、屏風の外に二歩ほど行くと糸より細い声で、「良さん」

と呼び止められ「なんだい」と振り返ると「お詫びは明日」。

 風もないのに軒端の桜がほろほろとこぼれて、夕闇の空に響く鐘の音が悲しい。