樋口一葉「別れ霜 四」

     

        初めて見る蝶を撮って調べたらサカハチチョウというものらしい。

                   十

「それは何かのお間違いでしょう、私はお客様とは知り合いでもなく、池ノ端からお供

したのに間違いはありませんが、車代をいただくよりほかにご用はないと思いますので

それを伝えて車代をいただけるようお願いくださいませんか」と一歩も動かない芳之助

に女中は笑いを含みながら「お間違いやらなにやら私らにはわかりませんが、お客様の

が車夫に用があるから足を洗わせて部屋に呼んでくれとおっしゃったことは間違いない

のでともかくお上がりなさい」と足を洗う湯を汲んできた。それでは冗談ではなさそう

だ、嘘でもないとしても不思議なことだ、誰が何の用があって自分に会いたいと言うの

か、親戚や友人からもまで顔を背けられる自分に、一面識もなく一言も話したことの

ない、しかもご婦人が所要とは何事だろう、会いたいとはなぜか、人違いと思えば訳も

ないが、ここかしこと言って乗り回した不審さだけでも怪しいのに頼みたいことがある

から足を洗って上がって欲しいとはこれほどわからない話もない。どうしたらよいのか

と佇んだままためらっていると女中はもどかしげに急かして、お客様はさぞお待ちかね

です、お会いになれば訳は分かるはずですからまあまずお行きなさいと手を取って立ち

上がらせたので、では参りますから手をお放しください、たぶん人違いだと思うがお目

に掛れば疑いも晴れることでしょう、案内をお願いしますとはっきり答えながらも心の

うちは依然漠々濛濛(はっきりしない)、静かに足を拭いてではと入ると、さすがに

商売柄燦燦と屋内を照らす電灯の光につぎはぎの針の目がよく見えて、極寒の夜なのに

背中に汗が流れる思いで苦しい、お客様は二階ですと連れられた梯子の一段、また一段

浮世の憂きを知らずに上り下りしたこともあった。その時のお酌の女が自分の前から

離れずに喋々しく(にぎやかに)もてなしたものだったが、その女がもしいたら合わせ

る顔がない、ここには昔の友達が遊びに来ているに決まっているが、何かの拍子に自分

を見つけて引っ張り込まれ、あれこれ話してしまったらいろいろ知られて恥になると

思うと、なぜ上がってしまったのか、今更ながら無駄なことをしたと思って胸が騒ぎ

足は震えた。よく知った梯子を登り切って右手の小座敷、お客様はここですと示して

女中は急いで降りて行った。障子の外にしばらく立っていたがきりがないと身を低くし

て静かに開けて座敷に入ると、頭巾と肩掛けに全身を覆っていた人の姿が明らかになっ

た。寝ても覚めても忘れない自分の半生の半身、二世(来世も)の妻新田の娘お高だっ

た。芳之助はそれを見るなり何を思ったか踵を返して急ぎ出ようとする、お高は走り寄

って無言でつかむ帯の端、振り払えば取りすがり、突き放せばまといつき「芳様お腹立

ちはごもっともですがほんの一時、長くとは申しません、申し上げたいことがあるので

す」ととぎれとぎれに、目に涙をためて引き留める手は細いが、懸命の心は蜘蛛の糸

何千筋、力なき力を払いかねて五尺の体はよろめいたが、必死で荒々しく突き放し、

「お人違いでしょう、あなたのお話を聞くような者ではありません、池ノ端からお供し

たの車夫には何のことやらわかりません、車代をいただくほかにご用はないはずですの

でご冗談はおやめください」と言い放ってすっと立てば「芳様あんまりです、そのお心

ならば私にも覚悟があります」と涙を払ってきっとなるお高、「おもしろい、覚悟とは

何ですか。許婚の約束を解いてほしいならそれはこちらからも願うこと、回りくどく

申し上げるだの候だのあれこれの回りくどいことはご無用、後とは言わず今目の前で

切りましょう、他人になるのは簡単です」とあざ笑う胸の内に湧くのは何か、お高は

涙顔で恨めし気に「お情けない、まだそのようなことおっしゃるとは。できるものなら

この胸を断ち割って中をお見せしたい」

                 十一

 次に会うのはどこの辻のどこそこで、必ず待っていてくださいと約束して別れたその

夜のことは誰も知らないので安心だが、安心でないのが松澤の今の境遇、大体は察して

いたもののそれほどまでとは思いもよらなかった。その難儀も誰のせいかと言えば自分

の親であることがうらめしい、聞いてくれなくても諫めてみようか、いや、父はともか

く勘蔵というものがいる以上下手なことを言い出しては疑いの種にならないともいえな

い、おためにならないばかりか彼と会うこともできなくなってしまえばどうにもならな

い、しかるべき道はないかと思い迷う心を包み隠して目の色にも表さないが、出嫌いと

知られたお高が昨日は池ノ端の師匠、今日は駿河台の錦野と駒下駄を直す日が多くなっ

たのが不審といえば不審であったが、子故に暗いのは親の眼鏡、運平の邪心にも娘は

いつまでも無邪気で子どもの伸びるのは背丈だけと思っているのか、もしやという懸念

もなく、仲のよかったのは昔のこと、今の芳之助に愛想が尽きないものがいるものか、

まして娘は孝行者で親の言いつけに背くはずもないので心配無用と、勘蔵が注意をして

も取り上げもせずに、錦野の申し込みもちょうどよい時だった、有徳の医師だというし

故郷には少なからぬ地所を持っていると聞くので娘のためにも自分のためにも行く末

悪い縁組ではないなどと、折々漏れ聞く腹立たしさ、たとえ身分が昔通りでなくても

認められた夫のある身には忌まわしい嫁入り話など聞くも嫌なこと、表向きの仁者

(徳ある)顔も何かの手段かもしれないし、優しげな妹もあてにはならないことが度々

あった、毒蛇のような人々を信用している心に何を話しても無駄だが、このままにして

おけば悲しい日が来るのは目前だ。聞かせて心配させるのも悪いがやはり頼みは彼の

力、男の知恵でよい考えがあるかもしれないと思い立てば心はあせるが落ち着いて、

「友達の誰様がご病気と聞きました、特別仲のよい人だったので是非お見舞いに行きた

いのですが」と許しを請うと、お高のいつもの優しさなので運平は疑いもせずうなずい

て、「それなら早く行って早く帰りなさい、病人の所には長くいるものではない。お供

に女中を連れて行きなさい」と気を遣うと、「いえそれには及びません、裏通りを行け

ばすぐそこです、女中も家のことで忙しいのにちょっと行ってすぐ帰るのにお供など

大層なこと、支度も何もいりませんのでこのまますぐに」と身支度をして庭を出ようと

すると、「お嬢様今日もお出かけですか、どちらへ」と勘蔵がぎろりとにらむ目が恐ろ

しいが、臆してはならないと無理に笑顔を作って愛らしく、「今日も、とは勘蔵ひどい

わね、今日はと言わなければてにおはが違いますよ」とほほ笑んで何気なく家を出て、

約束の辻を行き返りながら待てども待てども今日はどうしたのか影も見えない。誰かに

聞くわけにもいかないし、自分の家を知られるのは恥ずかしいので来てくれるなと場所

を教えてくれないが、すでに錦野でうろ覚えながら聞いている。お怒りに触れたらそれ

までだが、空しくもの思いしているよりはいっそお目にかかってから何とかしようと

決めて妻恋下へ、あてどもなくここの長屋、あちらの長屋で雲をつかむように尋ね歩い

た。松澤というかどうかわからないが老人の病人が二人いる若い車夫の家ならこの裏の

突き当りから三軒めの、どぶ板のはずれたところだと教えられた。日も暮れて薄暗く

なり、迷う心も暗くなる、何と言えばいいか悩みながら戸の隙間からのぞくと家内の

痛ましいこと、頭巾肩掛けに身を包んでいるが目からこぼれ出たのは紅(美人)の涙。

                十二

 老いては僻むものというが、ましてや貧苦にやつれ、人は恨めしく世はつらく、明け

ては嘆き暮れては怒り、心の晴れ間がないのでそれほど重くもない病気も治る気配は

ない。枯木のような儀右衛門夫婦の待ちわびているのは春ではなく芳之助、「それに

しても帰りが遅い、よい客があって遠くまで行っているのか、それにしてももう帰り

そうなものだ。日没前に一度は様子を見に帰ってくるのに今日はどうしたことか」と首

を伸ばす心は外にいるお高も同じ、路地の入口を振り返りながら家をのぞいて、芳様は

まだ帰っていないようだが相談したいことは山のようにある、お目にかからないでは

戻るわけにはいかない。それにしてもご病人たちを抱えた暮らしが身一つにかかって

いる芳様はさぞご心配だろう、本当ならご両親の看護をすべき身なのによそ事に聞く

心苦しさに湧く涙を呑みながらのぞく戸を内側から開いたのは、見違えはしないが昔の

面影も残らぬ芳之助の母の姿。待っている人ではない人が佇んでいるのに驚いて、物も

言わずに見つめる目も弱くなったのか不審げにどなた様かと聞かれるのもつらい、お高

は頭巾を手早く取って「お忘れになりましたか」と取りすがって泣く。我が子ではない

が縁ある人なので、母は女の弱い心で「おお、お高か、いえお高様かどうしてこのよう

な所へ、どう尋ねておわかりになったのですか」とおろおろした涙声を聞きつけていざ

り出てきた儀右衛門はくぼんだ目できっと睨み付け「そこで何を話している、夕方は特

に風が冷たいのに風邪でも引いたら芳之助に済まないぞ」、言葉を聞いてお高は恐る

恐る顔を上げ、「ご病気ということを人づてに聞きましてお怒りに触れるとは思いまし

たがご様子がうかがいたく、出にくいところを繕ってようようの思いで参りました。

お父様におとりなしを」としおしおと言い出したが母が取り次ぐ間もなく儀右衛門は

あざ笑って聞こうともせず「それはまた、こざかしくいろいろなことが言えたものだ、

父親に仕込まれてのことだろうからその手にはもう乗らぬ、余計な口に風邪を引かせる

前に帰りなさい、真面目に聞くものはこの家には一人もいない、婆様も鼻毛を読ませる

な」と憎々しげに言い放って見返りもしない。「それはごもっとものご立腹ながらこれ

までのことは私はつゆほども知らなかったのです。申し訳の一通りをお聞きいただいて

昔の通りに思ってください」と詫びる言葉も聞き入れず、「何を言うか、父親の罪は

知らないので今まで通り嫁舅になりたいとは聞いて呆れる、考えてもみなさい人でなし

の運平の娘を嫁にする芳之助と思うか、もし芳之助がすると言ってもわしがいる以上

嫁にすることは毛頭ならぬ、汚らわしい、運平の名を思い出しても胸が煮えくり返る、

ましてその娘を嫁になどとは思いもよらないこと、言葉を交わすのも忌まわしい、早く

帰れと言ったら帰れ、ええ何をうじうじ、婆様そこを閉めなさい」と言葉遣いも荒々し

く怒りの色がすさまじいので母は見かねて、「それはあまりに短気です。この子の言う

ことも一通りは聞いておやりになりませんか」ととりなすのを睨み付けて、「お前まで

が同じようなたわごとを、もはや何事も聞く耳はない、お前が追い出さなければわし

が」と止める妻を突きのけて、病み衰えても老いの一徹、上がり框に泣き崩れている

お高の細い腕をつかんで押し出した。「お慈悲を、一言でいいのでお聞き入れくださ

い」と詫びて泣いても何の容赦もない。荒い言葉に怒りを込めて「嫁でも舅でもない、

赤の他人が来る家ではない、何を言われてもう会わぬぞ」はたと閉めた雨戸の敷居、

くちし(朽ち、口惜しく)は溝か、立端(立場)もなくわっと泣きだした(のは空の

闇を縫って飛ぶ烏の声)。