樋口一葉「暁月夜 二」

 この思いが通じさえすれば心休まるだろうと願うのは間違いだ。入り込むほどに欲が

増えて、果てのないのが恋である。敏は初めての恋文に心を痛めて、万が一知られたら

罪は自分だけではない、知らなかったとはいえ姫も許されまい、さらにあの継母がどれ

だけ怒ってどれほど立ち入ってくるだろうか、自分の思慮の浅はかさ、甚之助殿に頼ん

だのは全くの不覚であったと思ったり、自分を励ましてたいしたことはない、大英断の

庭男ではないかこのことは覚悟の上、ただ危ういのは姫の心だけで、首尾よく文は届い

てもつれなく返されたら甲斐もない。ともかく甚之助殿の返事を聞きたいと待っていた

ところ、その日の夕方例の人形を持っていつもよりも嬉し気に、お前の歌のおかげで僕

が勝ってこの人形を取ったよと、自慢顔で見せれば、姉様はあの歌を御覧になりました

か、そしてなんとおっしゃったと聞くと、何も言わずに文庫に入れてしまったが、今度

もまたあのような歌を詠んで姉様に見せたらよい、お前が褒められたら僕も嬉しいのだ

からと可愛いことを言う。思う身には大層頼もしく、さまざまに機嫌を取って、姉様も

きっと歌がうまいことでしょう、ぜひ吾助も拝見したいので姉さまにお願いしてくださ

い。書き捨てをいただいて来てください、必ずきっとお願いしますと、返事の仕方を

教え、一日待ち二日待ち、三日経っても音沙汰がないので敏の心は悶え、甚之助を見る

たびにそれとなく促すと、僕ももらってやりたいけれど、姉さまが下さらないのだと

板挟みになって困った様子、子供心にも義理があるのか間に立っておろおろしている。

敏はいろいろに頼み込んで、今度は封じ文にあらん限りの言葉を何と書いたのか、文章

の美しさでは評判の男であったが。

 見る人が見れば美男ともいえる、鼻筋通り目元も鈍くない、豊頬で柔和な顔をしてい

る敏、学問に依った品位はさすがに庭男になっても身を離れず、吾助吾助と勝手元では

姦しい評判はお茶の間を越して大奥まで届き、約束のお婿様が洋行中で、起き伏し写真

に話しかけている長女さえもが、吾助や、垣根の桜を手折っておくれなどと言って小さ

な用足しにもご褒美にお菓子を手づから賜る名誉だが、ご本尊がいるのでわき目も振ら

ず、思い込んだら一心のところはありし日の敏のようで、あたら二十四の勉強盛りを

この体たらくとは残念だ。甚之助に追従し、学んだものとは違う文の趣向も案外うまく

いき、文庫に納めていただいたのならもう我がものだと一度は思い勇んだが、その後

幾度も書き送った文に一度も返事がなく、といって無情に投げ返しもしないが、開いて

読んだかどうかさえ甚之助に聞いても定かではない。今度こそと書いたものは思いが筆

にあふれてあまりに長く、我ながらここまで迷うものかと文を投げ出して嘆息し、甚之

助に向ってはさらに悲し気に、姉さまは私を憎んで、あれほどご覧に入れた歌に一度も

返歌をくださらず、あなたにまでこのような取次ぎをするなとおっしゃったつれなさ、

男の身でこれほど恥をかいて、おめおめとこの屋敷にはいられません。暇をいただいて

故郷に帰りたいが、聞いてください、田舎にはもう両親もいないのです。ただ一人いた

妹と大層仲が良かったのですが亡くなりました。それがお姉様にそっくりで、今も生き

ていたらと恋しくてたまらないのです。あなたにはお姉様ですが私には妹のように思わ

れて、その書き捨ての反故でもよいので持つことができたら本望なのです。せめて一筆

でも拝見できたらと思うのですが下賤の身で何を思っても及ばない事でしょう。無礼者

と叱られればそれまでですがお嫌ならさっぱりと、見るのも嫌だから出て行ってくれと

言ってくれれば、いよいよと私にも覚悟があります。これほどの思いが消えるわけも

ありませんが、次第にあきらめもつくでしょう。もう一度この文を差し上げてはっきり

お答えを聞いてください。それ次第では若様にもお別れすることになりましょうがと

虚実入り混ぜて子供心にも哀れに思うように頼むと、甚之助は元々吾助贔屓なので何と

かこの男の願いを成就させたく、喜ぶ顔見たさの一心でこれまでの文を何通も人目に触

れないよう滞りなく届け、姫の心も知らずに返事をと責めていたが、このように迫られ

てはさらに悲しく、今日こそは必ず返事をもらってお前の喜ぶようにするから、田舎に

行くことはやめておくれ、いつまでもここにいておくれ、急に行っては嫌だと泣く。

涙を敏に拭ってもらうとなお悲しく、その手にすがりついていつまでも泣いていたが、

純真な心にはこのことが身に染みて悲しいので、その夜姫に吾助はこれほど思って言う

のだから後生ですから返事を下さい、これから決してわがままを言わずいたずらもしま

せん。吾助が田舎に帰らぬよう、今まで通り一緒に遊べるよう、返事を下さい。ちょっ

とでいいのです、吾助は一筆でもいいと言っていたので、この巻紙へ何か書いて僕に

下さい。吾助は田舎に帰っても行くところがないのできっと乞食になってしまう、それ

は嫌だ、ぜひこの手紙を見て、ちょっと何か言ってください、姉様姉様お願いですと

手を合わせる可愛らしさ、情け深い女の身であるからこの子の涙だけでもこたえたが、

もし盗賊であっても庭師であっても私を恋う人を憎めようか。姫の心はどれだけもつれ

ただろう、甚之助は母に呼ばれて返事を聞く間もなく、名残惜し気に出て行った後、

その玉のような腕に文を抱いて胸に当てて夜もすがら泣いていた。

 

 二十歳の春を夢の中のように暮らして、盛りも過ぎようという時に何を思ったか、姫

は別荘住まいをしたいと申し出た。鎌倉のどこやらに眺望を選んで昨年購入したという

話だけ聞いてまだ見ぬ、しゃれた離れがあって、名物の松があってと父君が自慢するの

を頼りに、ずっとわがままに暮らしてきて、さらにお願いをするのは言いにくいのです

が、このような身ですからそこに住まわせて下さいませんか、甚之助さまが成長したら

やるというお約束を聞きましたのでそれまでの留守番として、お父様のいらっしゃる時

にも私がいればご不自由も少ないことでしょう。どうぞそこに住まわせて、世を離れて

海に遊び、桜貝でも拾わせてくださいと頼む。不憫なことだ、どんな訳があって楽しい

盛りの年に、人より優れて美しいというのに鏡の存在を知らないようなことを言うのだ

ろうか、他人事に聞いても嬉しいとは思えないのに、まして親ならどんなにつらいか。

しかし隠居めいた望みも姫の心には無理もない、都にいて姉妹が浮世だっているのを

見るのもつらかろう、せめて望みのままに、住みたいと言うならそこに住まわせ、好き

な琴を松風と合奏するなり気ままに暮らさせようと父君は許しを出したが、あまりに

かわいそうではないですか、いくら望みとはいえあのような遠い所、それ程の距離では

ありませんが行ったきりというのは私も心配だし子供らも淋しかろう、甚之助が一番

慕って中姉様でなければ夜も明けぬのに、朝夕の駄々がどれだけ増えて姉たちが難儀

するのが目に見えるようです。もう少しいてくださいと母君はもの柔らかに言ったが、

お許しが出たのですからと支度をして実直な召使を選び、出発はいつと決めてしまう

と、甚之助は限りなく悔しがり、まず父君に嘆き、母君を責め、2人の姉君にも当たり

散らして、中姉様をいじめて追い出すのだと恨み、僕を一緒にやってくださいと迫り、

姫に向っては訳もなく甘えて、しがみついたまま泣いて離れず、姉さま何に腹を立てて

鎌倉へ行ってしまうのか、一月や半月ならいいけれどいつ帰るかわからないと皆言って

いる。何を言っても嘘で、鎌倉に行ったらもう帰ってこないのでしょう、残って淋しい

思いをするより僕も一緒に行って、もうここには帰らない。父様も母様も嫌いだ、みん

な捨てて一緒に行くと言うのを姫はほろりとしながら静かに諭して、可愛いことを言っ

て泣かせないでください、鎌倉へ行って帰らないなどと誰が言うのですか、それこそ嘘

で、ちょっと遊びに行ってそのうち帰ってきますからおとなしく待っていてください、

もし帰らなくてもあそこはお前のお屋敷なのだから、大人になるまでのお留守番をする

のです。今連れて行ってもすぐ淋しくなりいやになって母様を恋しがるに違いありませ

ん。いい子で大人におなりなさいと詫びるように慰められれば、それでもと腕白を言え

ずにしくしく泣いて、いつもの元気もなくしょんぼりとしている姿がいじらしい。

 姫の鎌倉籠りの噂が広まると、敏はびっくりしてしばらく呆気に取られていたが、

さらに甚之助に詳しく聞くと間違いないと泣きながら話し、何とかおやめになる工夫は

ないかと頼まれて、さてどうしようと腕を組んで思案しても思いつかない。人目も憚ら

ずに萎れかえっている甚之助がうらやましい、心は空虚で土を掃く箒もうとましい。

このような身になったのは誰のためか、つれない姫のふるまいの訳を探ることもでき

ず、ここに捨てられて取り残されるのか、せめて出発前に一目と願っていたが影を見る

こともなく空しいまま明日の早朝という便りを聞いた。もう全てを捨てて病気と称し、

一日臥せていたが、恋に乱れた心悲しく今宵限りの名残を惜しもうと、春の宵の落花の

庭の足音がしないのをいいことに、せめて夢枕に立ちたいと忍び込んだ。

 夜更けて軒端の風鈴の音も淋しく、明日はこの音がどんなに恋しいだろう、この軒端

もこの部屋も、とりわけ甚様のこと、父君母君のこと、普段はそうも思わない姉妹の

ことまで恋しいであろうと思うと眠れぬ床の上で物思う姫、甚之助が一時も離れずに、

今夜もここで寝るというのを、明日の朝邪魔になると母君が遠慮して連れて行ってしま

った後の淋しさを思えば明日からの一人住まいはどうなるのか、甚様はしばらくは私を

恋うて泣くだろうが、時間が経てばいつか忘れて姉さまたちに甘えるに決まっている、

自分は気の紛れることもないままに恋しさが日毎に増して、彼の笑顔を見たいと思って

もかなわない、父上もそうだ、遠く離れて面影を忍べば近くにいるときの十倍も増すだ

ろう、深い慈愛の声が耳を離れるまい。そのためにここを捨てて、辛い思いに身を苦し

めることになったが、吾助のことも忘れられないだろう、許してください、夢にも憎く

ないからこそ恋するまいと退くことにしたのです。空しい浮世にはこのようなことも

もあるのです。知らなけれは憎みも恨みもしますでしょうが、その憎まれることを望ん

でこうするのです。いただいた文はとても惜しいので封こそ切りませんが、手文庫に

納めて一生の友とします。とはいってもまだ先の長い身、悲しみの月日は長いことでし

ょう、何事もさらりと捨てて、面白くもなく悲しくもなく暮らしたいと願っているの

に、春風が吹けば花も咲くような、枯木でない心の苦しみ。せめて月が出ていれば胸の

内を見せたいと押さえる手に動機はいよいよ高くなり、袖をかみしめても涙がこぼれて

姫はしばらく打ち伏して泣いていたが、吹き込む夜風は誰の魂か、求める心が耐え難く

なり静かに立って妻戸を開けば、二十日の月が木立の間におぼろに薄暗く、弘徽殿の細

殿口(光源氏が朧月夜の姫の袖をとらえた場所)を思わせる。まさに敏には今この時。

 

 浮世には、話に出ないどのようなことが潜んでいるのだろうか。今は昔の涙の種、

我が恋ではない懺悔話、聞くも悲しい身の上もあり、春の夜更けて身に沁みる風に閨の

灯火がまたたく淋しさ。香山家の花と呼ばれた姫、同じ子爵の子の中でも美色を誇り、

といって奢らず、物静かでつつましく、諸芸をおさめて殊に琴の腕は遠い空まで聞こえ

て、月の夜に琴柱を直すときには雲も晴れ、花に向ってその音を響かせればうぐいすも

聞きほれる。親のいない妹の大切さは限りなく、兄の寵愛を一番に受け、良い上にも

良い人をと選んでいるうちに、どこの奥方とも名を変えていない十六歳の春、無残にも

春の嵐が初桜を散らした。美男とはいえ馬丁の六三、天上人の前の塵のような身の上、

どうしてこの恋が成り立つものか。儚い恋は兄の目に止まって、ある日遠乗りの帰り道

に、野のはずれにある茶屋で人払いをして因果を含めた情けの言葉、六三も露見すれば

首を切られる覚悟だったがご主君はもの柔らかく、申し訳ないが六三、屋敷より立ち

退いてくれ、私にはあくまでもかわいいお前だ、やれるものならやりたいが、七万石の

先祖の功績に対し、皇室をお守りする身分に対してどうしてもできない事である。表向

きにも姫を屋敷におくことができないが、たった一人の妹、両親が老いての子で形見だ

と思えば不憫は限りない。お前の心ひとつで私も安堵できるし姫にも傷がつかない、

これを了承してさっぱりと手を切って欲しい、今後の為にと言って包みを賜った。言わ

ずと知れた手切れ金の、はした金ではなかったが六三はそれには目も止めず、重罪を

犯し、馘首と言われても恨みはないものを情け深いお言葉が身に沁みますと男らしく、

確かに私は下賤の身ですが金のために恋をしたのではありません。今後一生姫様のこと

は指も差すまい、まして口にするなど夢にもいたしませんが、金のために口をつぐむの

ではありません。こればかりはと恐れもなく突き返してつくづくと詫びた。帰ってその

ままの別れ、名残惜しくとも姫とも口に出さずに出て行った後、どこへ行ったのだろう

か。忘れられない姫を忘れるため、義理のために涙を呑んでも心は屋敷を離れ難い。

 深窓の姫は物思い、六三の暇を伝え聞いた時から心は固まって解けることはなく、

慈愛深き兄が責めずににおいてくれているもったいなさ、七万石の末娘に生まれ親に

玉のように愛されたのに、瓦にも劣ることをした恥ずかしさ、しかもなおその人を恋し

く思うことがつらいと涙に沈んでいる月日の間に命を宿していた。幼くてわからなかっ

たことが、憂き身の上に憂きを重ねることとなった。五か月にもなっていたとはと身を

投げて泣いて、人にも会わずものも思わずただ死にたいと身を捨てて、部屋より外に

出ず、一心に悔いても誰に訴えるべきか。先祖に恥辱を与え家系を汚し、兄に面目な

く、人目が恥ずかしく、自分を責めて昼も夜も寝ず痩せに痩せた姿に、兄も胸を痛めて

手づから手当に奔走してくれることもつらく、とうとうものも言わずに涙を流している

ばかり。八か月の月足らずの子が産声を上げたが、お姫様のご誕生という声も聞かぬ

うちに亡くなってしまった。それをどこかで知った六三は天地に嘆いて、姫の命は自分

の命、短い縁と浅ましい宿命を思えば一人残ってなんとなろう、待っていてください、

私も一緒に行きますと忍び会った日に姫より賜ったしごきの緋縮緬を胸に何重にも巻い

て、大川の波と消えてしまった。

 不幸の由来を悟り、父母恋しい夢の中でも、桜も咲かなければ風を恨むこともないと

独居の願いを固めた。漏らさぬように隠された素性、誰も知らないからこそ何とか近づ

きになりたいと名が立つ香山の姫と呼ばれる苦しさから一切を捨てて、わがままと言わ

れる境涯にも心で涙を吞み、哀れな二十歳の一人寝。その一念は固まって動くことは

なかったが、岩をも通す情けの矢、敏のことが身に染みて、恋しいというほどではない

がその心は憎からず、文を抱いて侘しくしているのも我ながら浅ましいと呆れ、見たり

聞いたりするからこそ思いも増すのだ、さあ鎌倉へ逃れてこの人のことは忘れ、世に引

かれる心を断とうと決心したのだったが、今夜せめて妻戸越しにお声を聞きたく、見咎

められる罪も忘れてこのように偲んでいたのですと敏に袖にすがられ、嘆かれればそれ

を払う勇気がなく、人目に恋と見られようともよい。私の心さえ狂わなければと燈火の

許で向かい合って、成るまじき恋を聞く苦しさ。敏は最初からの思いを語り、せめて

哀れと思ってくださいと言えば姫ももったいないことだと泣いて、お志の文の封は切っ

ていませんがご覧くださいこの通りと、手文庫を見せ、私故と聞けば嬉しくも悲しい、

行く末はご出世なさってどのようなお人にもなる身だったのに、大事な勉強の時間を私

の為などに、いよいよ恋とは浅ましくはかないものだ。私の生涯がこのように悲しく、

人に言えず悩んでいるのもその浅ましい恋のため、もういない両親のことは話しては

ならないと胸に秘め、父はもちろん母も家の恥だと世に隠していることを聞かせては

いけないのですが、一生に一度の打ち明け話です。聞いてください私の素性をと、涙を

尽くして語り明かせば夢のように春の朝が近づき、鳥の声も空に聞こえ、あっという間

だった。あなたは東京、私は鎌倉に離れて会えることはないでしょう。別れが決まって

いるのなら、独りで恋していた方が心は安らかです。何も言わず語らず、請われても

受け入れませんと暁の月の下で別れたが、その後姫はどうなったのか、さらに敏はどう

なったのか、朝の月の名残を眺めて、

  有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし(古今集

   明け方の薄い月の下で別れてから、暁ほど心苦しいものはない

 と嘆いているかはわからない。

 

 また学生に戻れたかどうか、というところか。