昔の寄席 馬場孤蝶

 関東以南に住んでいた父が何度も買っては枯らしていたシャクナゲを思い出す。着る

ものでもなんでも赤を買う男だった。ここでは何もしなくても毎年咲く。がさすがに

今年の大雪で、一番好きな白いシャクナゲが消えてしまった。何もしなさすぎの罰。

 

                 五

 

 竹町の若竹へ吾々が行きだしたのは、明治十四年頃であったと思う。

 円遊がステテコを始めたのも、大凡その頃であった。当時の寄席は一体に入りは今

よりはずっと多かったろう。

 円遊はその時分には、茶番のようなやり方であった。円遊が弁慶になり、一座の誰彼

が、義経その他になって、勧進帳の茶番などもやった。瀧夜叉などもやったかと思う。

面燈火などを用いて、なかなか大袈裟なものであった。入りを取ったのは此の茶番仕掛

のお陰であったと思う。円遊の話は、当時の大家のなかではそう重んずべきものでは

なかったのであるが、それでも幾らかの新味は加わって居た。

『成田小僧』とか『お初徳次郎』とかいうような話は、如何にも円遊に適したものの

ようには見えたのであるが、何処となくまだ落着きが悪かったようであった。晩年に

なると、それがだんだん落ち着いて来たのであろうと思う。

 要するに修行の功で出来上った芸でなく、才気の芸であったので後年先輩の伝統的な

型が客に忘れられて行くに従って、円遊の芸の長所が客の胸に善く徹するようになった

のであろうと思う。後年には、円遊の話は如何にも当意即妙で面白いというので、お座

敷などが多かったように聞いて居るのだが、そういう風に頓智を働かすところでもっ

て、此の人は自分の芸の修行の足りないのを意識的に補って居たかも知れぬ。

 当時の大真打連は皆続話をしたが、円遊はそれが出来なかったろうと思う。義士の薪

割りの話などは、何うもまずかった。軽い罪のない話だけが、先ず聞けたのであった。

けれども、今の大家連の中へ入れば、ステテコ時代の円遊でも優に名人とでも云わなけ

ればなるまいと思う。

 当時の咄家は続話で、中家位のところは、大抵音曲を入れるのであったが円遊の一座

立川談志というのは、素噺であった。顔の長い、而も顎が細くとがって長い男で、

克明に話をするのであったが、それで居てなかなか可笑しかった。思うに話は上手で

あったのであろう。円遊のような才気を基としたムラ芸ではなかったので、今何ういう

芸風であったか思い出すのは困難である。

 ところが、談志も厳密にいえば素噺ばかりで高座を勤めたのではない。話のあとが

郭巨の釜堀という踊のようなものをやった。郭巨が子を埋めに行くところからやるの

だ。先ず座布団を巻いて、それを抱いて何とか云ってはパァ、又何とか云ってはパァ

で、子との別れを悲しむ身振りをする。それから、鍬で地面を掘る真似をし、いよいよ

釜が出て来たというので、吃驚した表情から、大喜びの有様にて、帰命頂礼テケレッツ

のパァというので、ステテコ型の踊りになって終るという、まことに呑ん気極まった

ものであったが、何しろやって居る当人が大真面目なので、いやにくすぐって笑わせら

れるという感じはなくて、見て決して厭な心持のするものではなかった。

 呑ん気極まると云えば、円遊一座の橘屋円太郎の芸なども、全くたわいのないもので

あった。円太郎は顔の如何にも柔和そうな、愛嬌のある男で、人が酒を飲んで騒ぐ真似

をして、歌を唄ったり、饒舌(しゃべ)ったりして居るうちに嚔をすると、皆がエエ

きたないなどと云うところをやるだけのことであった。大抵は、馬車の喇叭を吹いて、

お婆さんあぶないよなどと、馬丁の口真似をするのだ。眼鏡から板橋へ通う馬車などは

実に危険だと思われる程構造の不完全な、そして、幌などの殆ど襤褸のように見える、

今日ではほとんど想像のできぬようなものであったが、そういう馬車は円太郎馬車と

呼ばれて居た。その名称は円太郎がそういう馬車の真似を高座でしたのから起ったので

あろうと思う。円太郎は柔かに太った背の低い男で、如何にも円いという印象を人に

起させる体型及び表情の人間だった。

 ヘラヘラ坊万橘というのも居た。此も小柄な何方かと云えば丸顔の男だった。けれど

も、円太郎のように円満に円くはなく、幾らか骨ばって居た。まず赤い布切(きれっぱ

し)で頭を包んでその余りを頬冠りのように下へ持って来て、顎の下で結び合わせ、扇

を開いて、『太鼓が鳴ったら賑だァね、ほんとにそうなら済まないね、ヘラヘラヘッタ

ラ、ヘラヘラヘ』というような言葉に節を附けて云いヘンな横眼を使うような眼附きを

して湯呑を取って湯を飲んだりするのである。歌は『太鼓が鳴ったら』のかえ歌として

『大根が煮えたら、柔らかだァね』というのもあった。囃子は太鼓と三味線でも使った

かと思う。

 円遊一座の如きは、当時の大家の一座に比べると、幾らか俗な方であったのであろう

が、それでもそういう俗ななかに、何処か呑ん気な太平な気分が表れていて、面白い

ものであった。

 先代の遊三もこの一座であった。芸は後年の風と素質に於てかわった所はない。矢張

りヨカチョロをやって居たのである。

 或男が、女房を貰ったところが、その女房が亭主の寝息を窺っては、毎晩何処かへ

出て行く。亭主はそれと気が附いて、或晩、そっと後を附けて行くと、女房は或寺の墓

場へ入って、新墓を暴き、死人を引きだし、その腕を喰った。亭主は驚いて逃げて帰っ

て慄えて居ると、女房も直ぐ後から帰って来て、亭主の様子で後を附けられたことを覚

って、笑いながら、自分は一度病気であった時に、或人が妙薬だ、と云って、何んだか

分らぬ肉を呉れたが、それを食うと、病気は直きになおってしまった。後で聞くと、

それは人間の肉だというのであったが、その味が忘れられないので、時々斯うして夜出

て行くのだと云った。亭主は、弱いことを云っては、自分も喰われてしまうかも知れな

いと思ったので、イヤ俺だって若い時分は親父の脛をかじったと云った。

 此の話は、遊三がやるのを聞いたことがあるのだが、その後は誰がやるのも聞いた

ことがない。寄席での話に対する取締りが厳しくなってから、勿論斯ういう話はできな

くなったのでもあろうか。

                  六

 若竹で聞いた咄家の中では五明楼玉輔(先代)というのを懐い出す。中背の痩せぎす

な、少し気取った男であった。咄家としては、漢語なども少し使えた方であったよう

だ。続話をしたように思うのだが、偖(さて)何んな話をしたのであったか、覚えて居

ない。『写真の仇討』というのがお箱であったらしいのだが、玉輔がニュウ・ヨオクの

ことをばニュウ・ユウルクと云ったと云って、吾々が笑った事を記憶しているのだか

ら、『写真の仇討』の一部分位は聴いたかも知れないが、何うも確でない。

 玉輔の一座で何ういう噺家が出たのか、それは少しも覚えて居ない。片目の今輔

見たのはずっと後のことだと思う。

 この間、新聞を見ると、或噺家が、『わたしの親父は歌にまで唄われた桂文治です』

と云うと、客が噺家があったかねえと云った。今の寄席通なるものは大抵そんなものだ

から、仕方がないというようなことが書いてあった。

 なるほど『桂文治は咄家で』という歌のようなものを聞いた覚えはあるが、全体の

文句は一寸思い出せない。

 桂文治は確かに咄家であった。所謂芝居噺をするのであった。何っちかと言うと小柄

な、眼附きの鋭い、如何にも鯔背な男であった。

 或男が、他の男の妾のところへ行って酒を飲んで居ると、その旦那が来て双方甚だ

バツの悪いことになる。旦那は、その男の額へ湯呑をぶっつけて傷を負わす。それで、

男は出刃か匕首を持って、復讐に出かける。そこで後の引幕を落とすと、吉原らしい

遠見の書割になって居る。或はそれもそういう景色を書いた幕であったかも知れぬが、

兎に角、文治はその前で上着を肌脱ぐと、弁慶か何かの粋ななりになって、立膝で立ち

回りの身振をするのであった。

 外の話もしたであろうが、小生はその話だけしきゃ覚えて居ない。而も、この話は

二度位聞いたように記憶して居る。

 禽語楼小さんは、極く小柄に見える、顔が狆に似たような男であった。小さんは続話

はしなかったのであるが、円遊の話などより余程風刺が強くこたえるような話し方で

あった。小さんは雄弁と云っても宜いような咄家であった。『五人回し』などでは、可

なりに旨く漢語を使った。けれども『将棋の殿様』『お蕎麦の殿様』などが最も客受け

のする話であった。今日の咄家では、殿様の話のできるものは一人もあるまいと思う。

侍らしい侍を出し得るものは、今では円右唯一人であろう。

 『目黒の秋刀魚』も小さんの話ではなかったかと思う。何うも小さんの話を聞いた

ような気がする。

  団州楼と云った燕枝は当時の大看板であって、これも一二度は若竹で聞いたのだ

が、何んな話であったか、今少しも記憶に残って居ない。品のある咄家とは思われた

が、何うも話はそれ程上手ではなかったようである。『島鵆』(しまちどり)の一部分

でも聞いたのであろうと思うけれども、一向に憶い出せない。

 春風亭柳枝は、体の肥った一寸遊人というような感じのする男であった。話は博打打

のことであったように思うが、これも今記憶に残って居ない。柳條だの、司馬龍生など

という咄家は、可なりな看板であったようだが、そう話は旨くはなかった。

 たしか円馬と云ったかと思うのだが、可なりな商店の旦那とも云いそうな品格の、

もう好い年配の肥った噺家があったが、水茶屋の娘に旦那が出来たが、それが掏摸で

あったという話を二三度聞いたことがある。此の話は近頃になって速記本で見たことが

あるから、講釈の方でも、此の話をやるかも知れない。

 円橘が橘之助をつれて上方から帰って来たと云って、若竹にかかったのを聞きに行っ

たことがある。円橘は肥った柔和そうな、可なり年をとった男であった。何んな話を

聞いたのか、今は覚えて居ない。橘之助は痘痕があるかと思われるような顔の肥った女

であった。今の橘之助よりは器量が悪かったように思うのだが、同じ人であるのであろ

うか。

 円生は当時大家であった。骨太の、色の白い、顔附きの凄い男であって、話にも強味

があった。博打打が欺(だま)かされて呼び出されて、途中で要撃されるという話を

二度聞いたように思う。或人は円生の『鰍ヶ沢』が面白かったと云ったが、成る程ああ

いう話は得意であったろうと思われる。

 吉原の松人という女郎が病気になって、楼主の虐待を憤って火をつける話を聞いた

ことがあるが、此は円生の話ではなかったと思う。かなり深い仲の客が来て居て、それ

に松人が天井裏へ火の附いた着物が何かを上げてあるから今に火事になると話すところ

が可なり物凄かったと覚えて居る。吉原に『松人火事』というのがあったが、話はその

謂だというのであった。

 明治二十年頃であったと思うのだが、円朝を唯った一遍若竹で聞いたことがある。

如何にも落ち着いた正々堂々たる話し方であったが、余りに平凡な教訓的な言葉が混っ

たので、客が冷かしだして、話が面白く聞けなかった。円朝は可なり体の大きい男で

あったように覚えて居る。

 伯円も一遍若竹で聞いたことがある。話の中で鶴の講釈が始まって、伯円が頭の赤い

のを丹頂というのだと云うと、客が頭の光るのは何んだと云った。伯円はそれに構わず

に話を続けようとすると、客は尚頭の光るのは何んだと云った。伯円は怒って、そこそ

こに話を終ってしまった。何んな話であったのか、何んな話し方であったのか、少しも

覚えて居ない。唯伯円が背の高い、頭の禿げた男であったことが記憶に残って居るのみ

である。

                  七

 手づま師では、柳川一蝶齋も見たことがあるが、帰天斎正一が西洋流の手づまでは

大家であった。正一はまずいながら講釈もやった。托塔天王晁蓋が何うしたという水滸

伝の講釈を一遍聞いた覚えがある。正一は手づまの外に幻燈をやった。今の活動写真か

ら見ると、隔世の感が深い。西洋の大きい家から火事の出るところだの、或景色が夕暮

になり、全く夜になって、月夜になるところなどを見せた。火事などは、烟と火は見え

るのであるが、建物は何時までたっても焼け落ちない。これは、建物の絵はそのまま

で、烟と火の板のみが動くようになって居たからである。それでも、天一の幻燈は当時

では、そういう活動式のところがあって珍しかったのだ。

 明治二十年頃にはジャグラ操一というのがあった。これは天一よりはもう少し新式

な、もう少し規模の大きい手づま師であった。然し、咄家気分というようなものは、

正一の一座の方に夐(はるか)に多かったと思う。

 十人芸とか称する西国坊明学というのが、上方から来たことがあるが、これは大きな

盲坊主であって、義太夫もやれば、琵琶もひいた。琵琶は今で云えば筑前琵琶のような

ものであったようである。客に謎を掛けさせて、三味線を引きながら、解(とき)を

歌うようにして云うのであったが、これは上方では古くから座頭のやる事であったよう

に聞いて居る。

『縁かいな』の徳永里朝も見たことがあるようには思うのだが、確な記憶はない。

 明治十八九年までは、寄席では女義太夫はそれ程勢力を持つに至らなかったので、

寄席へ出る女の芸人は女義太夫でないものの方が多かった。

 円遊の一座であったが、何うか明かには覚えていないが、宝集家金之助という年増の

常磐津語があった。出額ではあったが、眼のはっきりとした可なり好い器量の女であっ

た。『壇特山』だの『富山』などを聞いたことを覚えて居る。

 鶴賀若辰という新内語りがあった。極く低い声で語るのであった。若辰は、肥った、

三十を余程越して居るかと思われるような盲目の女であった。

 近頃死んだ紫朝の新内の声を思い切って殺すようなところが、若辰の全体であると

思えば間違いはないのだ。

 岡本宮子のことは、かつて拙著『葉巻のけむり』の中に書いたが、当時女で兎にも

角にも真打として客を呼んだのは、宮子一人であった。岡本浄瑠璃というのは、新内の

一派であるらしかった。『継子いじめ』などというのをやるのは、他の新内と変わりは

なかったが、『須磨の組討』などをやるところが、岡本派の特徴であったのではなかろ

うかと思われる。

 聞くところによれば、長谷川時雨女史が、先頃或る雑誌へ宮子のことを女義太夫とし

て書かれたというのだが、宮子は女義太夫のまだ流行らぬ時分の女芸人で、而も真打で

あったのであるから、そこが一寸面白いのである。若い女であって、芸は何うせヨタで

あったのであろうが、器量のお陰で人気を集めて居たのだ。寄席芸堕落の徴候が、もう

その時分から見えて居たようにも思われるのである。

 宮子は後に禽語楼小さんの妻になったとか聞いたのであるが、小さん死後落魄し脚気

の為めに、本所の何処かの路上に倒れて居て、養育院へ送られたという新聞を見たの

も、もう十年以上前のことである。

 要するに、明治三十年頃までの寄席はあらゆる平民芸術の演ぜられる壇上であった。

男の義太夫でも当時は平民芸術であった。先代越路の如きさえ寄席へ出た。木戸は高く

なって精々二十銭位であった。呂昇、長広などは無論寄席へ出た。

 大芝居で五円近くの木戸で義太夫が興行されたり、金ピカの劇場で落語や講釈を聞か

されたりするのも、時勢の進歩には相違なかろうが、木戸銭が高くなり、興行場が立派

になった割り程には、芸が上手になったようには思えない。

 客が趣味の低劣になったことは一般である。けれども有楽座などのお客の方が落語の

妙味を解せざることは、寄席の客以上であるように思われる。寄席芸人はまだ寄席に於

てはその芸の権威を持して居ることができるようである。寄席芸人は寄席の壇上で骨を

折って貰い度い。蝋燭を両方へ立てて薄暗いような高座で、時々蠟燭の心を切りながら

話すというような気分で、落語の全体が出来て居るのだ。それを電燈の光眩き金ピカの

壇上へ引ずり出しては、何うもだいぶ調子が違うようである。

 『貞婦伝』というようなビラが下がったので、おやおやと思って居ると円右が「芝

浜」を話しだすというのでは、余りのことに苦笑もし兼ねる。

 それから、何んぼ可笑し味を主とした落語であっても、一語一句が皆笑うように出来

て居はしない。笑うには、笑うべき要点があるものだ。それを噺家が口を開くや否や、

笑い始めて、しまいまで笑い続けるというのは、話を聞く方式ではない。而も、有楽座

の客などにはそういうのが甚だ多い。

 噺家がそういう客に向かって話をするのを光栄とするようでは、甚だ心細い。彼等は

寧ろ退いて、華やかならぬ寄席の高座で、伝統ある芸を演じて、誠実な聞き手を持つ

べきである。