馬場孤蝶「文化の変遷と寄席の今昔」

        海が見たいがために五浦へ行って思いがけず岡倉天心の勉強をした。    

     

     寄席対小劇場

 僕等の少年の時分には、寄席は平民娯楽場の中心であったのだが、現今では、そうで

はなくなってしまった。

 昔でも、寄席以外に娯楽場の種類が幾つか在ったには在った。が、その一つは各所に

あった小劇場である。近頃まで在った中洲の真砂座とか赤坂演技座とかいうのも、小劇

場には相違なかったのであるが、僕のいう昔の小劇場なるものは、もっとずっと小さ

い、全くの平民的劇場であったのだ。僕の知って居る限りで云えば芝の森元座、二長町

に在った何んとかいう座と、向柳原の開盛座などが盛な方であり、もっと小さいので

は、赤城下に殆ど列んでいる位の近い位置に全くの小芝居が二軒あった。僕はその時分

は、弁天町に住って居た親類の老人のところへ漢文を習いに本郷から毎日通っていたの

で、その小芝居の前を通って『八陣守護城』とか『二十四孝』とかいうような、悪どい

程色彩の濃い絵看板を見かけたことがある。

 けれども、そういう小芝居の客はずっと俗な連中_重に女、子供と云ってもよかった

ろう_であったので、寄席_小さくとも中流以上の_がそういう小芝居に影響されると

いうことはなかった。

 中等どころの劇場が大入場を拡げだしたのも、二十二三年以後のことである。当時の

春木座_今の本郷座_の前身で、大阪の鳥熊と称する男が、可なり安い芝居を興行しだ

した。役者は芝鶴、鯉之丞、勘五郎などというのが重立った役者であった。けれども、

極めて変っていたのは看客待遇法であった。鳥熊は先ず大入場を思い切って広くした。

それから、面白いことには客の下駄の掃除をした。

 即ち、雨天の日など、泥まぶれになっている下駄の歯をば、下足の方で、客の帰る迄

に、すっかり綺麗に洗って置くのであった。

 そういう興行法が大いに当って、毎日大入をしめた。何しろ、その時分、春木座を

一日見物するには、何うしても一円以上はかかったのであるが、二十銭もかからぬ位で

見られるのであったから、あの近傍の人に取っては一種福音の観があった。

 が、それでも、それが為めに、若竹あたりは、そう大して打撃を受けたことはなかっ

たろうと思われる。

 そういう小芝居もしくは中芝居へ行く客は、濃厚な娯楽を求める連中であって、もっ

とあっさりした、軽い気の利いた寄席の芸を賞玩する連中とは、少し種類を異にして

いたと思う。それに芝居の方だというと、時間などの関係もあって、そう誰でも行くと

いう訳にはいかなかったのである。

 それから芝居の方は何分時間が長いのであるから、弁当がいるとか何んとかいうこと

になって、寄席より少しは費用を要したようにも思われる。要するに、芝居の方は、

何んとなく出入が億劫であるように大抵の人に感ぜられていたのである。

 夜間、即ち、大抵の人がもっともひまになる時間に於て、手軽な娯楽の場所と云って

は、寄席より外にないと言い得る時代であったのだ。

 先ずそういうような点でも、昔の寄席は、他の娯楽機関に対し、競争を容(ゆる)さ

ぬような優越な地位を占めていた。これが、当時の寄席が大抵何処も繁昌した一理由で

あった。

     昔の寄席には権威があった

 その時代に於ては、人々の知識の程度、趣味の程度が、大凡平均していたように思

う。

 その時代には、東京の人口が今日程多くなかったことは勿論であるが、それは、地方

人は今日程多くなかったという意味になる。即ち、その時分は東京が今日のように地方

人に征服されていなかった時代であったのだ。それ故に、その時分では、地方人は、

直きに東京人の感化を受けて、可なり急速度に東京人に近づいて行くのであった。思う

に、その時分東京へ出た地方人は重に知識階級であったので、その趣味においても、

東京人とそう甚だしく違ってはいなかったのであろう。そういう風で寄席などの芸は、

東京趣味、東京人的知識に訴えるものでありさえすれば宜しかったのである。

 芸人の方からは、解らないところがあれば、それは客の方が悪いのだからという考え

でやって差し支えがなかった。謂わば芸人の方に権威があったのである。

 又客の方から云えば奇抜だとか斬新とかいうものを、只管(ひたすら)に求めるとい

うまでに、それまで在った物に不満足は感じていないし、又何んでも新しい物を要求す

るというような向上的憧憬は持っていたのではなかったのだから、自分たちの持ってい

るだけの知識、趣味に合致するものであれば、満足するのであった。言葉を換えて云え

ば、当時の客は一種のエキスペクションを持って、芸を見、そのエキスペクションに合

致するものであれば、それでもう十分満足するのであった。勿論、芸に対して、看客の

方で或る固定したエキスペクションを持って臨むということは何時の時代でもあること

であるのだが、演ぜられる芸とそのエキスペクションが合致するかしないかで、問題が

いろいろになるのである。

 寄席で演ぜられる芸のうちでは、云うまでもなく落語が重なものであるのだから先ず

落語に就て云うことにするが、当時の聴客には落語は全体としてよく理解されたので

ある。落語が大成されたのは、明治十四五年頃から見て、そう古いことではなかった。

その時分を去ること精々で三十年位前といって間違いは無かったろう。いや、実際は

もっと近かったかも知れぬし、話によっては、慶応年間若しくは明治の初め位に作られ

たものも、幾つかあったかも知れないのだ。いやそれどころではなく、円遊の話の如き

その時分出来上がりつつあったものさえあった位である。そういう訳で、落語の中に出

て来る人物の身分とか気質というものは、噺家なり、客なりが実見したものではないに

しても、大体想像だけはつく位、落語が作られた時代と明治十四五年頃_或は二十年頃

でも_とは接近していたのである。いや、時としては、落語の中に出て来る商家の旦那

とか、若旦那とか、権助とか、おさんどんとかいうような人物の気質を、多分に具備

した実際の人物を見ることさえあった時代であった。

 だから、そういう方面だけで云えば、少くとも明治二十年位までにあっては、落語は

大部分時代の風俗の写実であったと見られぬこともないのある。

 それから侍などに就ても、侍という生活を実際やった人々が、可なり多く生存して

居た時代であったことは勿論である上に、極く若かった吾々さえもが、その侍であった

人々の子、即ち、そういう侍であった人々の直ぐ次のゼネレエションであったのだ。

それで、所謂侍なるものに対しても、吾々は相当の理解や、想像を持つことができ、

従って余程の親しみを持つことができたのであった。

 そのほか、家屋の具合でも、衣服道具などに至っても、封建時代のものと、そう大し

た違いはなかったのである。いや、前時代の典型的な住家的建物の残っているものさえ

少くなかったのである。日常は用いなくなっていた物でさえ、その物だけは吾々の眼に

触れることが珍しくはなかった。たとえば日本馬具だとか、行燈だとかいうようなもの

の如きは、実際用いているのを見掛けることさえあった位であるのだから、唯の古道具

として見かけることなどは、全く屡々(しばしば)の事であったのである。その他の

風俗習慣の如きも、消え去ったものでさえ、大抵は何んらかの痕をまだ残していたので

ある。

 要するに、吾々の青年時代にあっては、落語の材料は今日のように既に死んだもの

若しくは死にかかっていたものではなくして、十分に生きているもの、若しくは可なり

に息の通っているものであったのだ。

 落語家自身の方から見ても、話そのものの雰囲気なるものは、個人として落語家その

人を取り巻いていた雰囲気とそう甚しき相違はなかった。即ち、彼らは、話の中でのみ

自分の生きている時代とは全く違った時代、自分の接触しているのとは全く異った世界

へ入って行かなければならんというのではなかったし、又自分等が実見しているのとは

全く異った種類の人間にならなければならんというのではなかったのである。謂わば、

落語家は地のままで芸を演じられるという傾きであったのだ。

 そういう風で、芸人と客との間で知識趣味の範囲が、大凡極っていたのであって客の

エキスペトクしているところへ、芸人の芸が一々嵌まって行き得る訳であったのだか

ら、芸人の方も芸がしよいのであった。即ち芸人が自信を以て芸を演じ得られたのであ

って、客の方も、安心して、心持好く芸を鑑賞し、享楽することができるのであった。

 寄席芸人を芸術家という風に尊敬するという時代では勿論なかったし、芸人自身も

人間としてはそう大したプライドを持っていたのではなかったが、実際上当時の寄席

芸人は卑俗な下等な人間として客から見られていたのではない。即ち、客が心の底から

そう軽侮しているのではなかった。客から見て全然賤しいおもちゃというのでもなかっ

た。口では成程寄席芸人とか、鹿とかいうような風に、軽侮的な言葉で以て呼ばれて

いたのであるが、客の心の上で芸人の占めていた位地は決してそうまで賤しいものでは

なかったのである。

 少くとも、滑稽とか、頓智とかいうような領域に於ては、彼らが一種のオラクル(神

託)であった。客はそういう点では、確に芸人から教えられるところが多かった。彼等

にはそういう点で権威があり、客も冥々のうちにそういう点に対し一種の尊敬を以て

彼等を待ったのである。

 当時の寄席で演ぜられた芸は、殊に落語は、内容的に云って、当時の東京趣味を具体

化したものであり、且つ前に云った通りの客の性質であったので、当時の落語は東京

趣味の具体化であり得たのである。

 当時の落語家は、自分等のハアトに何等の親近性を持っていないことをば、唯仕来り

(しきたり)通りにしゃべるというような鸚鵡芸人ではなかったのである。又、そうで

なくて済み得たという有利な位地にあったのである。

 大凡これで察せられるであろうが、当時の寄席の社会上の位地は高かったといって

宜しかろう。前代の越路などは東京では寄席を打ち回ったものであった。

 以上に説明した点が、昔の寄席の盛であった第二の理由であると思うのである。

樋口一葉「琴の音」

 空の太陽も月も変わることなく、春咲く花ののどかさは浮世の全て同じであるが、

梢の嵐はここばかりに騒ぐのか、罪のない身に枝葉を散らされる不運。まだ十四という

のに雨に打たれ、風に吹かれ、たった一人の悲しい境涯に漂う子があった。母はこの子

が四つの時に家を出て行ってしまった。自分一人だけが苦労から逃れようとしたわけで

はないが、傾きかける家運を元に戻すことはできないと知った実家の家族が、このよう

な甲斐性のない男に一生をまかせて泣いて暮らすのは気の毒だ、赤子との別れがつらか

ろうがまだ一人なのだからと分別を言われれば、あさましい女ごころ、子の父に心残り

はないが、子どもは可愛い、私が去った後この子やその父親はどうなるのかと血を吐く

ような思いもあったが、親の意見には義理もあり、弱い心では押し切ることもできず、

家も子もその父も捨ててたのだった。

 父親は母親のもとへ、一人で、または子を連れて行き、その子を押しつけて戻ること

もあった。俺はこのまま朽ち果てようとも、せめてこの子は世に出したい、何とかもう

一度戻ってほしい、長くとは言わない五年でよい、この子に物心がつくまでと頼んだり

すかしたり嘆いたり。やはり子故に闇なのは母親の常、そのうちに恋しさに耐えがたく

なって戻るだろうと、頼りない願いを持って十五日、二十日、今日こそは、明日こそは

と待つ日々は空しく過ぎて、顔を見ることもなく乳母に出たのか、人の妻になったのか

百年の契りは空しくなった。

 そして半年経った後には、父も以前とは変わってしまった。世の人は見限って出て行

った妻を賢いことをしたと誉めたが、残された親子を哀れに思う人は少なかった。それ

も道理で、胸にたまったもやを晴らすにはこれしかないと飲んでばかり。酔うほどに

その人の本性はいよいよ暗くなり、募るわがままを受け入れる人がどこにいよう。その

年の師走には親子二人の身を包むものもなくなり、雨露をしのぐ軒さえなくなってしま

った。しかし父さえいればと頼む大樹の陰、木賃宿の布団は薄くとも、暖かい情が身に

沁みることもあったが、それも十歳になる前に、金持ちが何かの祝いに鏡開きをした

振る舞い酒を、天からの贈り物だ、これを折りに極楽へ行こうと決めた父親は飢えた体

にしたたかに飲んだ帰り道、お堀の松の下で世にも浅ましく命を終えた。その後ここへ

来なさい、一人前にしてやろうなどと言ってくれる者もなく、そう願っても叶う望みも

ない。始めは浮世の父母ある人をうらやましく思い、自分にも母はいる、今はどこで何

をしているだろうかと恋しく思うこともあったが、父の悲しい最期を思い、我が渡辺家

の末路を思うと母の仕業は悪魔だと恨むのだった。

 父はいないのか、母はどこにいるのかと聞かれるたびに涙を流したのは昔のこと、

浮世に情けはなく、人の心に誠もないと思い知った日から、中途半端に情けをかけて

もらってもあざけられたかのように思って憎く、どうせつらく当たるのなら一筋につら

くせよ、どうしたって憂き身の果てなどと心はねじけて、神も仏も敵と思い、恨みは誰

に訴えればよいのか、並々ならぬ道に堕ちて並々ならぬ思いでいた。

 乱れに乱れた髪の間から人を射るような鋭い目が光る、垢にまみれた顔つきにいくら

かよいところがあったとしても、凡人の眼によくも見えるわけもなく、気味の悪い油断

ならない小僧だと指をさされ、警察にもにらまれて、あちらの祭りやこちらの縁日で

人波の中、忌まわしい疑いを受けて掏摸だの盗人だのと騒がれる悔しい思いもした。

 人の目は曇っており、耳は千里の外まで聞こえるので、一度誤り伝えたことは消える

ことなく、渡辺の金吾は本当の盗賊になった、そして明治の何やらと肩書がついて恐れ

られていると知って恐ろしくなり、ここを離れて知らない土地へ行こうかと思うことも

あった。恨みに耐えかねて死のうと思うこともあった。何度も水辺へ行ってこれを限り

と挑んだが、易しそうで難しいのが死ぬことだ。

 捨てたような身でもなお衣食の煩いがある。昼はそちらこちらへさ迷い歩いて用足し

をして、夜はその場限りの宿に夢を結び、一日一日を漂い過ぎて行くほどに、背丈と共

に伸びるのはねじくれた心だった。

 

 御行の松(根岸の西蔵院)に吹く風淋しく、根岸の田んぼで晩稲を刈り干す頃、その

あたりの森江静という女主人の家の前で、胡散臭い乞食小僧が怪し気な素振りでいる

と、女中たちが気味悪がってささやきあっていたが、門の開閉に用心するまでもなく、

垣根にしだれた柿の実にも何事もなく、一月ばかり過ぎるといつの間にか忘れられて、

噂にも出なくなったが、女主人の鋭い耳には少し怪しいと思うことがあった。秋雨が

しとしと降るもの淋しい夜、燈火の下で一人手慣れの琴を友として、しみじみとした

淋しい調べをつま弾いていた。上野の森に聞こえる鐘を、だいぶ夜も更けたと思って

手を止めて聞いていると、軒端を伝う雨だれの音や梢をゆする秋風のほかに、何かの

気配が聞こえることが度々であった。

 軒端に高い一本松。誰に操を立てての一人住みかと問えば、これのためと答える、琴

の優しい音色に一身を投じて思いをひそめる十九歳。姿は風に耐えない柳のようにほっ

そりと弱々しいが、爪箱を取って居住まいを改めるときは、塵の浮世の乱れも何者か、

松風通う糸の上に山の女神が下りて手を添えるよう、夢も現もこの中にとほほ笑んで、

雨が降ろうと風が吹こうと、雷が轟こうとも悠然として余念がない。

 時は十月、初霜がそろそろ降りて、紅葉の上に照る月は誰が砥石で磨いたのか、老女

の化粧との例えはすさまじいが、天下一面曇りなく、大廈も高楼も、破れ家の板間の犬

の寝床も、人に捨てられ、葦の枯葉に霜ばかり光る池の埋もれ水も、筧に細く水の流れ

る、山の下の庵も、田の案山子も溝の流れも、須磨も明石も松島も、一つの光に包まれ

て、清いものは清いまま、濁ったものは濁ったまま、八面玲瓏(どこから見ても透き通

っていて曇りがない)の、無私の面影に添った澄みきった琴の音はどこまで登って行く

のだろうか。美しく、素晴らしく、清く、尊く、さながら天上の音楽のようだ。

 お静の琴の音はこの年この日、浮世に人を一人生んだ。十四年間雨露に打たれてねじ

くれて岩のように固くなり、矢を射られても通らないほどの少年、果ては死骸を野山に

さらし、哀れな父の末期と同じになるか、悪名を路傍に伝えて腰に鎖の浅ましい姿で世

を送るのか、その心の奥にある優しさが子の刻の月下、琴の音に和して涙した。こぼれ

た涙は夜露の玉か、玉ならば趙氏の城の幾つにも替え難い。恋か情か、その人の姿も

知らず、わずか漏れ出る柴垣越しの声に嬉しいということを知った。恥ずかしさも知っ

た。かつては悪魔と恨んだ母の懐かしささえ身に沁みて、金吾はこの世は捨てたもの

ではないと知った。月はいよいよ冴え、垣根の菊の香りが袂に満ち、夜の嵐が心の雲を

払う。また聞こえる琴の音は百年の友となるだろうか、百年の悶えを残すばかりか、

金吾はこれより波乱万丈な世に出ようとしている。

昔の寄席 馬場孤蝶

 関東以南に住んでいた父が何度も買っては枯らしていたシャクナゲを思い出す。着る

ものでもなんでも赤を買う男だった。ここでは何もしなくても毎年咲く。がさすがに

今年の大雪で、一番好きな白いシャクナゲが消えてしまった。何もしなさすぎの罰。

 

                 五

 

 竹町の若竹へ吾々が行きだしたのは、明治十四年頃であったと思う。

 円遊がステテコを始めたのも、大凡その頃であった。当時の寄席は一体に入りは今

よりはずっと多かったろう。

 円遊はその時分には、茶番のようなやり方であった。円遊が弁慶になり、一座の誰彼

が、義経その他になって、勧進帳の茶番などもやった。瀧夜叉などもやったかと思う。

面燈火などを用いて、なかなか大袈裟なものであった。入りを取ったのは此の茶番仕掛

のお陰であったと思う。円遊の話は、当時の大家のなかではそう重んずべきものでは

なかったのであるが、それでも幾らかの新味は加わって居た。

『成田小僧』とか『お初徳次郎』とかいうような話は、如何にも円遊に適したものの

ようには見えたのであるが、何処となくまだ落着きが悪かったようであった。晩年に

なると、それがだんだん落ち着いて来たのであろうと思う。

 要するに修行の功で出来上った芸でなく、才気の芸であったので後年先輩の伝統的な

型が客に忘れられて行くに従って、円遊の芸の長所が客の胸に善く徹するようになった

のであろうと思う。後年には、円遊の話は如何にも当意即妙で面白いというので、お座

敷などが多かったように聞いて居るのだが、そういう風に頓智を働かすところでもっ

て、此の人は自分の芸の修行の足りないのを意識的に補って居たかも知れぬ。

 当時の大真打連は皆続話をしたが、円遊はそれが出来なかったろうと思う。義士の薪

割りの話などは、何うもまずかった。軽い罪のない話だけが、先ず聞けたのであった。

けれども、今の大家連の中へ入れば、ステテコ時代の円遊でも優に名人とでも云わなけ

ればなるまいと思う。

 当時の咄家は続話で、中家位のところは、大抵音曲を入れるのであったが円遊の一座

立川談志というのは、素噺であった。顔の長い、而も顎が細くとがって長い男で、

克明に話をするのであったが、それで居てなかなか可笑しかった。思うに話は上手で

あったのであろう。円遊のような才気を基としたムラ芸ではなかったので、今何ういう

芸風であったか思い出すのは困難である。

 ところが、談志も厳密にいえば素噺ばかりで高座を勤めたのではない。話のあとが

郭巨の釜堀という踊のようなものをやった。郭巨が子を埋めに行くところからやるの

だ。先ず座布団を巻いて、それを抱いて何とか云ってはパァ、又何とか云ってはパァ

で、子との別れを悲しむ身振りをする。それから、鍬で地面を掘る真似をし、いよいよ

釜が出て来たというので、吃驚した表情から、大喜びの有様にて、帰命頂礼テケレッツ

のパァというので、ステテコ型の踊りになって終るという、まことに呑ん気極まった

ものであったが、何しろやって居る当人が大真面目なので、いやにくすぐって笑わせら

れるという感じはなくて、見て決して厭な心持のするものではなかった。

 呑ん気極まると云えば、円遊一座の橘屋円太郎の芸なども、全くたわいのないもので

あった。円太郎は顔の如何にも柔和そうな、愛嬌のある男で、人が酒を飲んで騒ぐ真似

をして、歌を唄ったり、饒舌(しゃべ)ったりして居るうちに嚔をすると、皆がエエ

きたないなどと云うところをやるだけのことであった。大抵は、馬車の喇叭を吹いて、

お婆さんあぶないよなどと、馬丁の口真似をするのだ。眼鏡から板橋へ通う馬車などは

実に危険だと思われる程構造の不完全な、そして、幌などの殆ど襤褸のように見える、

今日ではほとんど想像のできぬようなものであったが、そういう馬車は円太郎馬車と

呼ばれて居た。その名称は円太郎がそういう馬車の真似を高座でしたのから起ったので

あろうと思う。円太郎は柔かに太った背の低い男で、如何にも円いという印象を人に

起させる体型及び表情の人間だった。

 ヘラヘラ坊万橘というのも居た。此も小柄な何方かと云えば丸顔の男だった。けれど

も、円太郎のように円満に円くはなく、幾らか骨ばって居た。まず赤い布切(きれっぱ

し)で頭を包んでその余りを頬冠りのように下へ持って来て、顎の下で結び合わせ、扇

を開いて、『太鼓が鳴ったら賑だァね、ほんとにそうなら済まないね、ヘラヘラヘッタ

ラ、ヘラヘラヘ』というような言葉に節を附けて云いヘンな横眼を使うような眼附きを

して湯呑を取って湯を飲んだりするのである。歌は『太鼓が鳴ったら』のかえ歌として

『大根が煮えたら、柔らかだァね』というのもあった。囃子は太鼓と三味線でも使った

かと思う。

 円遊一座の如きは、当時の大家の一座に比べると、幾らか俗な方であったのであろう

が、それでもそういう俗ななかに、何処か呑ん気な太平な気分が表れていて、面白い

ものであった。

 先代の遊三もこの一座であった。芸は後年の風と素質に於てかわった所はない。矢張

りヨカチョロをやって居たのである。

 或男が、女房を貰ったところが、その女房が亭主の寝息を窺っては、毎晩何処かへ

出て行く。亭主はそれと気が附いて、或晩、そっと後を附けて行くと、女房は或寺の墓

場へ入って、新墓を暴き、死人を引きだし、その腕を喰った。亭主は驚いて逃げて帰っ

て慄えて居ると、女房も直ぐ後から帰って来て、亭主の様子で後を附けられたことを覚

って、笑いながら、自分は一度病気であった時に、或人が妙薬だ、と云って、何んだか

分らぬ肉を呉れたが、それを食うと、病気は直きになおってしまった。後で聞くと、

それは人間の肉だというのであったが、その味が忘れられないので、時々斯うして夜出

て行くのだと云った。亭主は、弱いことを云っては、自分も喰われてしまうかも知れな

いと思ったので、イヤ俺だって若い時分は親父の脛をかじったと云った。

 此の話は、遊三がやるのを聞いたことがあるのだが、その後は誰がやるのも聞いた

ことがない。寄席での話に対する取締りが厳しくなってから、勿論斯ういう話はできな

くなったのでもあろうか。

                  六

 若竹で聞いた咄家の中では五明楼玉輔(先代)というのを懐い出す。中背の痩せぎす

な、少し気取った男であった。咄家としては、漢語なども少し使えた方であったよう

だ。続話をしたように思うのだが、偖(さて)何んな話をしたのであったか、覚えて居

ない。『写真の仇討』というのがお箱であったらしいのだが、玉輔がニュウ・ヨオクの

ことをばニュウ・ユウルクと云ったと云って、吾々が笑った事を記憶しているのだか

ら、『写真の仇討』の一部分位は聴いたかも知れないが、何うも確でない。

 玉輔の一座で何ういう噺家が出たのか、それは少しも覚えて居ない。片目の今輔

見たのはずっと後のことだと思う。

 この間、新聞を見ると、或噺家が、『わたしの親父は歌にまで唄われた桂文治です』

と云うと、客が噺家があったかねえと云った。今の寄席通なるものは大抵そんなものだ

から、仕方がないというようなことが書いてあった。

 なるほど『桂文治は咄家で』という歌のようなものを聞いた覚えはあるが、全体の

文句は一寸思い出せない。

 桂文治は確かに咄家であった。所謂芝居噺をするのであった。何っちかと言うと小柄

な、眼附きの鋭い、如何にも鯔背な男であった。

 或男が、他の男の妾のところへ行って酒を飲んで居ると、その旦那が来て双方甚だ

バツの悪いことになる。旦那は、その男の額へ湯呑をぶっつけて傷を負わす。それで、

男は出刃か匕首を持って、復讐に出かける。そこで後の引幕を落とすと、吉原らしい

遠見の書割になって居る。或はそれもそういう景色を書いた幕であったかも知れぬが、

兎に角、文治はその前で上着を肌脱ぐと、弁慶か何かの粋ななりになって、立膝で立ち

回りの身振をするのであった。

 外の話もしたであろうが、小生はその話だけしきゃ覚えて居ない。而も、この話は

二度位聞いたように記憶して居る。

 禽語楼小さんは、極く小柄に見える、顔が狆に似たような男であった。小さんは続話

はしなかったのであるが、円遊の話などより余程風刺が強くこたえるような話し方で

あった。小さんは雄弁と云っても宜いような咄家であった。『五人回し』などでは、可

なりに旨く漢語を使った。けれども『将棋の殿様』『お蕎麦の殿様』などが最も客受け

のする話であった。今日の咄家では、殿様の話のできるものは一人もあるまいと思う。

侍らしい侍を出し得るものは、今では円右唯一人であろう。

 『目黒の秋刀魚』も小さんの話ではなかったかと思う。何うも小さんの話を聞いた

ような気がする。

  団州楼と云った燕枝は当時の大看板であって、これも一二度は若竹で聞いたのだ

が、何んな話であったか、今少しも記憶に残って居ない。品のある咄家とは思われた

が、何うも話はそれ程上手ではなかったようである。『島鵆』(しまちどり)の一部分

でも聞いたのであろうと思うけれども、一向に憶い出せない。

 春風亭柳枝は、体の肥った一寸遊人というような感じのする男であった。話は博打打

のことであったように思うが、これも今記憶に残って居ない。柳條だの、司馬龍生など

という咄家は、可なりな看板であったようだが、そう話は旨くはなかった。

 たしか円馬と云ったかと思うのだが、可なりな商店の旦那とも云いそうな品格の、

もう好い年配の肥った噺家があったが、水茶屋の娘に旦那が出来たが、それが掏摸で

あったという話を二三度聞いたことがある。此の話は近頃になって速記本で見たことが

あるから、講釈の方でも、此の話をやるかも知れない。

 円橘が橘之助をつれて上方から帰って来たと云って、若竹にかかったのを聞きに行っ

たことがある。円橘は肥った柔和そうな、可なり年をとった男であった。何んな話を

聞いたのか、今は覚えて居ない。橘之助は痘痕があるかと思われるような顔の肥った女

であった。今の橘之助よりは器量が悪かったように思うのだが、同じ人であるのであろ

うか。

 円生は当時大家であった。骨太の、色の白い、顔附きの凄い男であって、話にも強味

があった。博打打が欺(だま)かされて呼び出されて、途中で要撃されるという話を

二度聞いたように思う。或人は円生の『鰍ヶ沢』が面白かったと云ったが、成る程ああ

いう話は得意であったろうと思われる。

 吉原の松人という女郎が病気になって、楼主の虐待を憤って火をつける話を聞いた

ことがあるが、此は円生の話ではなかったと思う。かなり深い仲の客が来て居て、それ

に松人が天井裏へ火の附いた着物が何かを上げてあるから今に火事になると話すところ

が可なり物凄かったと覚えて居る。吉原に『松人火事』というのがあったが、話はその

謂だというのであった。

 明治二十年頃であったと思うのだが、円朝を唯った一遍若竹で聞いたことがある。

如何にも落ち着いた正々堂々たる話し方であったが、余りに平凡な教訓的な言葉が混っ

たので、客が冷かしだして、話が面白く聞けなかった。円朝は可なり体の大きい男で

あったように覚えて居る。

 伯円も一遍若竹で聞いたことがある。話の中で鶴の講釈が始まって、伯円が頭の赤い

のを丹頂というのだと云うと、客が頭の光るのは何んだと云った。伯円はそれに構わず

に話を続けようとすると、客は尚頭の光るのは何んだと云った。伯円は怒って、そこそ

こに話を終ってしまった。何んな話であったのか、何んな話し方であったのか、少しも

覚えて居ない。唯伯円が背の高い、頭の禿げた男であったことが記憶に残って居るのみ

である。

                  七

 手づま師では、柳川一蝶齋も見たことがあるが、帰天斎正一が西洋流の手づまでは

大家であった。正一はまずいながら講釈もやった。托塔天王晁蓋が何うしたという水滸

伝の講釈を一遍聞いた覚えがある。正一は手づまの外に幻燈をやった。今の活動写真か

ら見ると、隔世の感が深い。西洋の大きい家から火事の出るところだの、或景色が夕暮

になり、全く夜になって、月夜になるところなどを見せた。火事などは、烟と火は見え

るのであるが、建物は何時までたっても焼け落ちない。これは、建物の絵はそのまま

で、烟と火の板のみが動くようになって居たからである。それでも、天一の幻燈は当時

では、そういう活動式のところがあって珍しかったのだ。

 明治二十年頃にはジャグラ操一というのがあった。これは天一よりはもう少し新式

な、もう少し規模の大きい手づま師であった。然し、咄家気分というようなものは、

正一の一座の方に夐(はるか)に多かったと思う。

 十人芸とか称する西国坊明学というのが、上方から来たことがあるが、これは大きな

盲坊主であって、義太夫もやれば、琵琶もひいた。琵琶は今で云えば筑前琵琶のような

ものであったようである。客に謎を掛けさせて、三味線を引きながら、解(とき)を

歌うようにして云うのであったが、これは上方では古くから座頭のやる事であったよう

に聞いて居る。

『縁かいな』の徳永里朝も見たことがあるようには思うのだが、確な記憶はない。

 明治十八九年までは、寄席では女義太夫はそれ程勢力を持つに至らなかったので、

寄席へ出る女の芸人は女義太夫でないものの方が多かった。

 円遊の一座であったが、何うか明かには覚えていないが、宝集家金之助という年増の

常磐津語があった。出額ではあったが、眼のはっきりとした可なり好い器量の女であっ

た。『壇特山』だの『富山』などを聞いたことを覚えて居る。

 鶴賀若辰という新内語りがあった。極く低い声で語るのであった。若辰は、肥った、

三十を余程越して居るかと思われるような盲目の女であった。

 近頃死んだ紫朝の新内の声を思い切って殺すようなところが、若辰の全体であると

思えば間違いはないのだ。

 岡本宮子のことは、かつて拙著『葉巻のけむり』の中に書いたが、当時女で兎にも

角にも真打として客を呼んだのは、宮子一人であった。岡本浄瑠璃というのは、新内の

一派であるらしかった。『継子いじめ』などというのをやるのは、他の新内と変わりは

なかったが、『須磨の組討』などをやるところが、岡本派の特徴であったのではなかろ

うかと思われる。

 聞くところによれば、長谷川時雨女史が、先頃或る雑誌へ宮子のことを女義太夫とし

て書かれたというのだが、宮子は女義太夫のまだ流行らぬ時分の女芸人で、而も真打で

あったのであるから、そこが一寸面白いのである。若い女であって、芸は何うせヨタで

あったのであろうが、器量のお陰で人気を集めて居たのだ。寄席芸堕落の徴候が、もう

その時分から見えて居たようにも思われるのである。

 宮子は後に禽語楼小さんの妻になったとか聞いたのであるが、小さん死後落魄し脚気

の為めに、本所の何処かの路上に倒れて居て、養育院へ送られたという新聞を見たの

も、もう十年以上前のことである。

 要するに、明治三十年頃までの寄席はあらゆる平民芸術の演ぜられる壇上であった。

男の義太夫でも当時は平民芸術であった。先代越路の如きさえ寄席へ出た。木戸は高く

なって精々二十銭位であった。呂昇、長広などは無論寄席へ出た。

 大芝居で五円近くの木戸で義太夫が興行されたり、金ピカの劇場で落語や講釈を聞か

されたりするのも、時勢の進歩には相違なかろうが、木戸銭が高くなり、興行場が立派

になった割り程には、芸が上手になったようには思えない。

 客が趣味の低劣になったことは一般である。けれども有楽座などのお客の方が落語の

妙味を解せざることは、寄席の客以上であるように思われる。寄席芸人はまだ寄席に於

てはその芸の権威を持して居ることができるようである。寄席芸人は寄席の壇上で骨を

折って貰い度い。蝋燭を両方へ立てて薄暗いような高座で、時々蠟燭の心を切りながら

話すというような気分で、落語の全体が出来て居るのだ。それを電燈の光眩き金ピカの

壇上へ引ずり出しては、何うもだいぶ調子が違うようである。

 『貞婦伝』というようなビラが下がったので、おやおやと思って居ると円右が「芝

浜」を話しだすというのでは、余りのことに苦笑もし兼ねる。

 それから、何んぼ可笑し味を主とした落語であっても、一語一句が皆笑うように出来

て居はしない。笑うには、笑うべき要点があるものだ。それを噺家が口を開くや否や、

笑い始めて、しまいまで笑い続けるというのは、話を聞く方式ではない。而も、有楽座

の客などにはそういうのが甚だ多い。

 噺家がそういう客に向かって話をするのを光栄とするようでは、甚だ心細い。彼等は

寧ろ退いて、華やかならぬ寄席の高座で、伝統ある芸を演じて、誠実な聞き手を持つ

べきである。

 

樋口一葉「暁月夜 二」

 この思いが通じさえすれば心休まるだろうと願うのは間違いだ。入り込むほどに欲が

増えて、果てのないのが恋である。敏は初めての恋文に心を痛めて、万が一知られたら

罪は自分だけではない、知らなかったとはいえ姫も許されまい、さらにあの継母がどれ

だけ怒ってどれほど立ち入ってくるだろうか、自分の思慮の浅はかさ、甚之助殿に頼ん

だのは全くの不覚であったと思ったり、自分を励ましてたいしたことはない、大英断の

庭男ではないかこのことは覚悟の上、ただ危ういのは姫の心だけで、首尾よく文は届い

てもつれなく返されたら甲斐もない。ともかく甚之助殿の返事を聞きたいと待っていた

ところ、その日の夕方例の人形を持っていつもよりも嬉し気に、お前の歌のおかげで僕

が勝ってこの人形を取ったよと、自慢顔で見せれば、姉様はあの歌を御覧になりました

か、そしてなんとおっしゃったと聞くと、何も言わずに文庫に入れてしまったが、今度

もまたあのような歌を詠んで姉様に見せたらよい、お前が褒められたら僕も嬉しいのだ

からと可愛いことを言う。思う身には大層頼もしく、さまざまに機嫌を取って、姉様も

きっと歌がうまいことでしょう、ぜひ吾助も拝見したいので姉さまにお願いしてくださ

い。書き捨てをいただいて来てください、必ずきっとお願いしますと、返事の仕方を

教え、一日待ち二日待ち、三日経っても音沙汰がないので敏の心は悶え、甚之助を見る

たびにそれとなく促すと、僕ももらってやりたいけれど、姉さまが下さらないのだと

板挟みになって困った様子、子供心にも義理があるのか間に立っておろおろしている。

敏はいろいろに頼み込んで、今度は封じ文にあらん限りの言葉を何と書いたのか、文章

の美しさでは評判の男であったが。

 見る人が見れば美男ともいえる、鼻筋通り目元も鈍くない、豊頬で柔和な顔をしてい

る敏、学問に依った品位はさすがに庭男になっても身を離れず、吾助吾助と勝手元では

姦しい評判はお茶の間を越して大奥まで届き、約束のお婿様が洋行中で、起き伏し写真

に話しかけている長女さえもが、吾助や、垣根の桜を手折っておくれなどと言って小さ

な用足しにもご褒美にお菓子を手づから賜る名誉だが、ご本尊がいるのでわき目も振ら

ず、思い込んだら一心のところはありし日の敏のようで、あたら二十四の勉強盛りを

この体たらくとは残念だ。甚之助に追従し、学んだものとは違う文の趣向も案外うまく

いき、文庫に納めていただいたのならもう我がものだと一度は思い勇んだが、その後

幾度も書き送った文に一度も返事がなく、といって無情に投げ返しもしないが、開いて

読んだかどうかさえ甚之助に聞いても定かではない。今度こそと書いたものは思いが筆

にあふれてあまりに長く、我ながらここまで迷うものかと文を投げ出して嘆息し、甚之

助に向ってはさらに悲し気に、姉さまは私を憎んで、あれほどご覧に入れた歌に一度も

返歌をくださらず、あなたにまでこのような取次ぎをするなとおっしゃったつれなさ、

男の身でこれほど恥をかいて、おめおめとこの屋敷にはいられません。暇をいただいて

故郷に帰りたいが、聞いてください、田舎にはもう両親もいないのです。ただ一人いた

妹と大層仲が良かったのですが亡くなりました。それがお姉様にそっくりで、今も生き

ていたらと恋しくてたまらないのです。あなたにはお姉様ですが私には妹のように思わ

れて、その書き捨ての反故でもよいので持つことができたら本望なのです。せめて一筆

でも拝見できたらと思うのですが下賤の身で何を思っても及ばない事でしょう。無礼者

と叱られればそれまでですがお嫌ならさっぱりと、見るのも嫌だから出て行ってくれと

言ってくれれば、いよいよと私にも覚悟があります。これほどの思いが消えるわけも

ありませんが、次第にあきらめもつくでしょう。もう一度この文を差し上げてはっきり

お答えを聞いてください。それ次第では若様にもお別れすることになりましょうがと

虚実入り混ぜて子供心にも哀れに思うように頼むと、甚之助は元々吾助贔屓なので何と

かこの男の願いを成就させたく、喜ぶ顔見たさの一心でこれまでの文を何通も人目に触

れないよう滞りなく届け、姫の心も知らずに返事をと責めていたが、このように迫られ

てはさらに悲しく、今日こそは必ず返事をもらってお前の喜ぶようにするから、田舎に

行くことはやめておくれ、いつまでもここにいておくれ、急に行っては嫌だと泣く。

涙を敏に拭ってもらうとなお悲しく、その手にすがりついていつまでも泣いていたが、

純真な心にはこのことが身に染みて悲しいので、その夜姫に吾助はこれほど思って言う

のだから後生ですから返事を下さい、これから決してわがままを言わずいたずらもしま

せん。吾助が田舎に帰らぬよう、今まで通り一緒に遊べるよう、返事を下さい。ちょっ

とでいいのです、吾助は一筆でもいいと言っていたので、この巻紙へ何か書いて僕に

下さい。吾助は田舎に帰っても行くところがないのできっと乞食になってしまう、それ

は嫌だ、ぜひこの手紙を見て、ちょっと何か言ってください、姉様姉様お願いですと

手を合わせる可愛らしさ、情け深い女の身であるからこの子の涙だけでもこたえたが、

もし盗賊であっても庭師であっても私を恋う人を憎めようか。姫の心はどれだけもつれ

ただろう、甚之助は母に呼ばれて返事を聞く間もなく、名残惜し気に出て行った後、

その玉のような腕に文を抱いて胸に当てて夜もすがら泣いていた。

 

 二十歳の春を夢の中のように暮らして、盛りも過ぎようという時に何を思ったか、姫

は別荘住まいをしたいと申し出た。鎌倉のどこやらに眺望を選んで昨年購入したという

話だけ聞いてまだ見ぬ、しゃれた離れがあって、名物の松があってと父君が自慢するの

を頼りに、ずっとわがままに暮らしてきて、さらにお願いをするのは言いにくいのです

が、このような身ですからそこに住まわせて下さいませんか、甚之助さまが成長したら

やるというお約束を聞きましたのでそれまでの留守番として、お父様のいらっしゃる時

にも私がいればご不自由も少ないことでしょう。どうぞそこに住まわせて、世を離れて

海に遊び、桜貝でも拾わせてくださいと頼む。不憫なことだ、どんな訳があって楽しい

盛りの年に、人より優れて美しいというのに鏡の存在を知らないようなことを言うのだ

ろうか、他人事に聞いても嬉しいとは思えないのに、まして親ならどんなにつらいか。

しかし隠居めいた望みも姫の心には無理もない、都にいて姉妹が浮世だっているのを

見るのもつらかろう、せめて望みのままに、住みたいと言うならそこに住まわせ、好き

な琴を松風と合奏するなり気ままに暮らさせようと父君は許しを出したが、あまりに

かわいそうではないですか、いくら望みとはいえあのような遠い所、それ程の距離では

ありませんが行ったきりというのは私も心配だし子供らも淋しかろう、甚之助が一番

慕って中姉様でなければ夜も明けぬのに、朝夕の駄々がどれだけ増えて姉たちが難儀

するのが目に見えるようです。もう少しいてくださいと母君はもの柔らかに言ったが、

お許しが出たのですからと支度をして実直な召使を選び、出発はいつと決めてしまう

と、甚之助は限りなく悔しがり、まず父君に嘆き、母君を責め、2人の姉君にも当たり

散らして、中姉様をいじめて追い出すのだと恨み、僕を一緒にやってくださいと迫り、

姫に向っては訳もなく甘えて、しがみついたまま泣いて離れず、姉さま何に腹を立てて

鎌倉へ行ってしまうのか、一月や半月ならいいけれどいつ帰るかわからないと皆言って

いる。何を言っても嘘で、鎌倉に行ったらもう帰ってこないのでしょう、残って淋しい

思いをするより僕も一緒に行って、もうここには帰らない。父様も母様も嫌いだ、みん

な捨てて一緒に行くと言うのを姫はほろりとしながら静かに諭して、可愛いことを言っ

て泣かせないでください、鎌倉へ行って帰らないなどと誰が言うのですか、それこそ嘘

で、ちょっと遊びに行ってそのうち帰ってきますからおとなしく待っていてください、

もし帰らなくてもあそこはお前のお屋敷なのだから、大人になるまでのお留守番をする

のです。今連れて行ってもすぐ淋しくなりいやになって母様を恋しがるに違いありませ

ん。いい子で大人におなりなさいと詫びるように慰められれば、それでもと腕白を言え

ずにしくしく泣いて、いつもの元気もなくしょんぼりとしている姿がいじらしい。

 姫の鎌倉籠りの噂が広まると、敏はびっくりしてしばらく呆気に取られていたが、

さらに甚之助に詳しく聞くと間違いないと泣きながら話し、何とかおやめになる工夫は

ないかと頼まれて、さてどうしようと腕を組んで思案しても思いつかない。人目も憚ら

ずに萎れかえっている甚之助がうらやましい、心は空虚で土を掃く箒もうとましい。

このような身になったのは誰のためか、つれない姫のふるまいの訳を探ることもでき

ず、ここに捨てられて取り残されるのか、せめて出発前に一目と願っていたが影を見る

こともなく空しいまま明日の早朝という便りを聞いた。もう全てを捨てて病気と称し、

一日臥せていたが、恋に乱れた心悲しく今宵限りの名残を惜しもうと、春の宵の落花の

庭の足音がしないのをいいことに、せめて夢枕に立ちたいと忍び込んだ。

 夜更けて軒端の風鈴の音も淋しく、明日はこの音がどんなに恋しいだろう、この軒端

もこの部屋も、とりわけ甚様のこと、父君母君のこと、普段はそうも思わない姉妹の

ことまで恋しいであろうと思うと眠れぬ床の上で物思う姫、甚之助が一時も離れずに、

今夜もここで寝るというのを、明日の朝邪魔になると母君が遠慮して連れて行ってしま

った後の淋しさを思えば明日からの一人住まいはどうなるのか、甚様はしばらくは私を

恋うて泣くだろうが、時間が経てばいつか忘れて姉さまたちに甘えるに決まっている、

自分は気の紛れることもないままに恋しさが日毎に増して、彼の笑顔を見たいと思って

もかなわない、父上もそうだ、遠く離れて面影を忍べば近くにいるときの十倍も増すだ

ろう、深い慈愛の声が耳を離れるまい。そのためにここを捨てて、辛い思いに身を苦し

めることになったが、吾助のことも忘れられないだろう、許してください、夢にも憎く

ないからこそ恋するまいと退くことにしたのです。空しい浮世にはこのようなことも

もあるのです。知らなけれは憎みも恨みもしますでしょうが、その憎まれることを望ん

でこうするのです。いただいた文はとても惜しいので封こそ切りませんが、手文庫に

納めて一生の友とします。とはいってもまだ先の長い身、悲しみの月日は長いことでし

ょう、何事もさらりと捨てて、面白くもなく悲しくもなく暮らしたいと願っているの

に、春風が吹けば花も咲くような、枯木でない心の苦しみ。せめて月が出ていれば胸の

内を見せたいと押さえる手に動機はいよいよ高くなり、袖をかみしめても涙がこぼれて

姫はしばらく打ち伏して泣いていたが、吹き込む夜風は誰の魂か、求める心が耐え難く

なり静かに立って妻戸を開けば、二十日の月が木立の間におぼろに薄暗く、弘徽殿の細

殿口(光源氏が朧月夜の姫の袖をとらえた場所)を思わせる。まさに敏には今この時。

 

 浮世には、話に出ないどのようなことが潜んでいるのだろうか。今は昔の涙の種、

我が恋ではない懺悔話、聞くも悲しい身の上もあり、春の夜更けて身に沁みる風に閨の

灯火がまたたく淋しさ。香山家の花と呼ばれた姫、同じ子爵の子の中でも美色を誇り、

といって奢らず、物静かでつつましく、諸芸をおさめて殊に琴の腕は遠い空まで聞こえ

て、月の夜に琴柱を直すときには雲も晴れ、花に向ってその音を響かせればうぐいすも

聞きほれる。親のいない妹の大切さは限りなく、兄の寵愛を一番に受け、良い上にも

良い人をと選んでいるうちに、どこの奥方とも名を変えていない十六歳の春、無残にも

春の嵐が初桜を散らした。美男とはいえ馬丁の六三、天上人の前の塵のような身の上、

どうしてこの恋が成り立つものか。儚い恋は兄の目に止まって、ある日遠乗りの帰り道

に、野のはずれにある茶屋で人払いをして因果を含めた情けの言葉、六三も露見すれば

首を切られる覚悟だったがご主君はもの柔らかく、申し訳ないが六三、屋敷より立ち

退いてくれ、私にはあくまでもかわいいお前だ、やれるものならやりたいが、七万石の

先祖の功績に対し、皇室をお守りする身分に対してどうしてもできない事である。表向

きにも姫を屋敷におくことができないが、たった一人の妹、両親が老いての子で形見だ

と思えば不憫は限りない。お前の心ひとつで私も安堵できるし姫にも傷がつかない、

これを了承してさっぱりと手を切って欲しい、今後の為にと言って包みを賜った。言わ

ずと知れた手切れ金の、はした金ではなかったが六三はそれには目も止めず、重罪を

犯し、馘首と言われても恨みはないものを情け深いお言葉が身に沁みますと男らしく、

確かに私は下賤の身ですが金のために恋をしたのではありません。今後一生姫様のこと

は指も差すまい、まして口にするなど夢にもいたしませんが、金のために口をつぐむの

ではありません。こればかりはと恐れもなく突き返してつくづくと詫びた。帰ってその

ままの別れ、名残惜しくとも姫とも口に出さずに出て行った後、どこへ行ったのだろう

か。忘れられない姫を忘れるため、義理のために涙を呑んでも心は屋敷を離れ難い。

 深窓の姫は物思い、六三の暇を伝え聞いた時から心は固まって解けることはなく、

慈愛深き兄が責めずににおいてくれているもったいなさ、七万石の末娘に生まれ親に

玉のように愛されたのに、瓦にも劣ることをした恥ずかしさ、しかもなおその人を恋し

く思うことがつらいと涙に沈んでいる月日の間に命を宿していた。幼くてわからなかっ

たことが、憂き身の上に憂きを重ねることとなった。五か月にもなっていたとはと身を

投げて泣いて、人にも会わずものも思わずただ死にたいと身を捨てて、部屋より外に

出ず、一心に悔いても誰に訴えるべきか。先祖に恥辱を与え家系を汚し、兄に面目な

く、人目が恥ずかしく、自分を責めて昼も夜も寝ず痩せに痩せた姿に、兄も胸を痛めて

手づから手当に奔走してくれることもつらく、とうとうものも言わずに涙を流している

ばかり。八か月の月足らずの子が産声を上げたが、お姫様のご誕生という声も聞かぬ

うちに亡くなってしまった。それをどこかで知った六三は天地に嘆いて、姫の命は自分

の命、短い縁と浅ましい宿命を思えば一人残ってなんとなろう、待っていてください、

私も一緒に行きますと忍び会った日に姫より賜ったしごきの緋縮緬を胸に何重にも巻い

て、大川の波と消えてしまった。

 不幸の由来を悟り、父母恋しい夢の中でも、桜も咲かなければ風を恨むこともないと

独居の願いを固めた。漏らさぬように隠された素性、誰も知らないからこそ何とか近づ

きになりたいと名が立つ香山の姫と呼ばれる苦しさから一切を捨てて、わがままと言わ

れる境涯にも心で涙を吞み、哀れな二十歳の一人寝。その一念は固まって動くことは

なかったが、岩をも通す情けの矢、敏のことが身に染みて、恋しいというほどではない

がその心は憎からず、文を抱いて侘しくしているのも我ながら浅ましいと呆れ、見たり

聞いたりするからこそ思いも増すのだ、さあ鎌倉へ逃れてこの人のことは忘れ、世に引

かれる心を断とうと決心したのだったが、今夜せめて妻戸越しにお声を聞きたく、見咎

められる罪も忘れてこのように偲んでいたのですと敏に袖にすがられ、嘆かれればそれ

を払う勇気がなく、人目に恋と見られようともよい。私の心さえ狂わなければと燈火の

許で向かい合って、成るまじき恋を聞く苦しさ。敏は最初からの思いを語り、せめて

哀れと思ってくださいと言えば姫ももったいないことだと泣いて、お志の文の封は切っ

ていませんがご覧くださいこの通りと、手文庫を見せ、私故と聞けば嬉しくも悲しい、

行く末はご出世なさってどのようなお人にもなる身だったのに、大事な勉強の時間を私

の為などに、いよいよ恋とは浅ましくはかないものだ。私の生涯がこのように悲しく、

人に言えず悩んでいるのもその浅ましい恋のため、もういない両親のことは話しては

ならないと胸に秘め、父はもちろん母も家の恥だと世に隠していることを聞かせては

いけないのですが、一生に一度の打ち明け話です。聞いてください私の素性をと、涙を

尽くして語り明かせば夢のように春の朝が近づき、鳥の声も空に聞こえ、あっという間

だった。あなたは東京、私は鎌倉に離れて会えることはないでしょう。別れが決まって

いるのなら、独りで恋していた方が心は安らかです。何も言わず語らず、請われても

受け入れませんと暁の月の下で別れたが、その後姫はどうなったのか、さらに敏はどう

なったのか、朝の月の名残を眺めて、

  有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし(古今集

   明け方の薄い月の下で別れてから、暁ほど心苦しいものはない

 と嘆いているかはわからない。

 

 また学生に戻れたかどうか、というところか。

 

樋口一葉「暁月夜 一」

 桜の花が梅の香を漂わせて柳の枝に咲くような姿だと、聞くだけでも心惹かれるよう

な人が一人で住んでいるという噂、雅な男がその名に心を動かして、山の井の水に憧れ

るような恋もある。香山家と聞こえるは、表札の従三位を読むまでもなく、同族中でも

その人ありと知られている。流れる水も清い江戸川の西べりに和洋風の家作りは美を

極めているとは言えないが、通る人が足を止めるほどの庭木の数々。翠滴る松と紅葉の

あるお屋敷といえば、世に知れ渡っている。

 人に知られているのはそれのみならず、一重と呼ばれる姫の美しさは、数多い姉妹を

差し置いて肩揚げの取れない頃から。さあ若紫の行く末はと心寄せる人も多かったが、

空しく十六の春を過ぎて今年二十歳の独り寝、あくまでも優しい孝行の心を持っていな

がら、父君母君が嫁入りの心配をしても「わがままながら、私は一生一人でいたいので

す。仰せに背くのは罪深いことですがこればかりは」と訳も言わず、一筋に嫌を通し

て、果ては世で忌まわしい噂を立てられても気にもかけず、年を取るのも惜しまず、

静かに風雅を愛して浮世の風に近づかない。慈善会や園遊会で出会いを求めるにもつて

がないので、高根の花に心悩ませている人が多いと聞く。

 牛込近くに下宿している森野敏という文学書生が、どんな風に乗ってきたのか儚い噂

を耳にして、おかしな奴だと笑って聞いていたが、誰も知らない一人住みの訳を知りた

くなって、何としてもその女を一目見たい、いや見たいではなく見てやろうと、世は

メッキでも秘仏と唱えて厨子にしまい込み、信心を増すものだ、外に出すのも恥ずかし

いような愚かな娘を慈悲深い親が御簾の外に出さないように取り計らっているのかも

しれない。それに乗じて奥床しがっているのは、雪の朝に末摘花の顔を見る前の心の

ようなもので笑止だと、けなしながらも気にかかるので、いつも門前を通るときには

それとなくのぞき、見られることもあるだろうと待っていた。時は来るもので、飯田町

の学校からの帰り道、日暮れ前の川岸を淋しく歩いていると、後から掛け声勇ましく

駆け抜けていった車に乗っていたのは姫であった。どこの帰りか高島田もおとなしやか

に、白粉ではない色の白さ、着物が何か見る暇はなかったが、黒ちりめんの羽織の気高

い姿。もしやと敏は走ってついて行くと、まさに彼女の家の門に入って行き、車輪が何

かに触れてガタリと揺れると、落ちかかった後ろ差しの簪を姫が細い指で受け止めよう

とした途端、夕風がさっと袂を吹き上げて、ひるがえった八ツ口からひらひらと何かが

落ちた。それと気づかず車はそのまま玄関に入って行ったので、敏はあわただしくそれ

を拾って懐へ押し込んで後も見ずに帰った。

 乗り入れた車は確かに香山家のものとは、車夫の法被の縫い取りで分かった。十七八

に見えたのは美しさゆえであろうが、その年ごろの娘がいるとは聞かないので、噂の姫

はあれだろう、それならば噂は嘘ではなかった、嘘どころか聞いていたより十倍も二十

倍も美しい。尋常でない美しさだ。土から生まれたバラの花さえシルクハットに差され

たいと願うものなのにあの美しさでなぜなのかと、敏は灯下で腕を組んでいた。拾った

ものは白絹のハンカチで、西行の富士の煙の歌が見事な筆で書いてある。

  風になびく 富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思いかな

 悟り切ったような女で不思議さ限りなく、あの愛らしい目で世をどう見ているのか、

人を焦らせるには訳があるのだろう、俺には夢にも恋などというようないやらしい考え

はないが、若い女の揺れる心に何か触れることがあって、それから起こった生半可な

求道心なら返す返すも浅ましいことだ、第一に不憫だ。高尚な心を持ち損ねて魔の道

へ陥ることは我々学生にもあることだが、何事にも一途な乙女にはなおさら無理なこと

で嘆かわしい。ともかくも親しくなって語り合い、諫めるべきことは諫め、慰められる

のなら慰めてやりたい。とはいってもわからないのが世の中なので、実は姫に悪い虫が

ついたことがあり、嫁に行きたくもやりたくもあるが、婚礼の席でそれが世間に知れる

ことがあっては娘の恥、我が恥となるため、子爵が隠し通そうと一生を箱入りにして

いるのか。それならこの歌は何心なくに描いたもので値打ちはない。いやこの優美な

筆の跡は絶対破廉恥な人ではない、きっと深い事情があって並々ならぬ思いをその振袖

に包んでいるのだ、その人の夢はなんと奥床しいことだろう。

 始めは好奇心から空しい想像を色々描いていたが、もう一度見たいと願っても、行き

違って後ろ姿さえも見られなかったら、水を求めても得られぬ渇きとなる。もう一念を

紛らわせる手段はなく、朝も昼も火を灯す頃にも、果ては学校へ行っても書を開いて

も、西行の歌と姫の姿が目の前を離れないので我ながら呆れるばかり。未来の学者が

このようなことではどうすると叱りつけても心はふらふらとなる。もうどうしようも

ないので、下宿を引き払い、この家にも学校にも心の病のために帰国し療養すると言っ

て旅立ったまま一月、どこに潜んだものか。恋の奴隷のなんと愚かなこと、香山家の

庭男として住み込んでいたとは。

 

 敏は幼いころから庭仕事が好きだったことから器用に鋏も使うし、竹箒を握る庭男

など何でもないこと。素性を知られないように、田舎から出てきたばかりだが、土を

なめてもこれを立身の手始めとしたく、などと我ながらうまい嘘で固め、名前も当座に

吾助と名乗った。

 いくら気が利かないといってもこれほどの役回りはあろうか。草むしりに庭掃除と

は、浮世の勤めを一巡終えたのに子供がのらくらもので、如来様のお迎えが来るまでは

口を干上がらせるわけにはいかないというような六十男のする仕事だ。古事記を朝夕に

開き、万葉集を写した手を、もったいないことに泥鉢の扱いに汚すとは。万年青の葉を

洗い、さらには芝生を這って木の葉を拾う姿は我ながら見られたものではない。もし

学友に見つかったらとんだことだと門外の用事を嫌がるので、台所女中がおかしがっ

て、東京は鬼の住む所ではないのに、土地慣れないとあのように怖がるのかと、見事

田舎者にされてしまった。

 あなたの為に立派な若者がここで浅ましい体たらくになっているとは誰も告げないの

で、何も知らない姫はいつも部屋にこもって琴を弾いている。その音にいよいよ心を

悩ませているが、時々庭を歩いて塵一つない美しさを認め、彼ではない召使に優しい

言葉をかけるのを見ても情け深さがわかる。

 最初の想像では、訳ありげに数珠を振袖の下に隠してお経ばかり読んで抹香臭くな

り、娘らしい香りから遠ざかっているのだろうと思っていたがそのような気配はなく、

美しい長髪をいつも高島田に結い上げて、後れ毛一つない身だしなみのよさは、その人

の好みなのかそれとも身に備わった果報なのか。銀の平打ち一つ差して、朱鷺色の房の

根掛けを結んでいるのが優美で似合うと思っていると、束ねただけの髪に花を一輪差し

た姿も愛らしい、これで美人の値打ちが決まるといわれる、持って生まれた着付けの

見事さ。襦袢の襟が紫の時は顔色が殊に白く見えて、わざと地味作りして黒ちりめんに

赤い梅の刺繡の品の良さ。中でも薄色の綸子の被布姿を池に映し、緋鯉に餌をやる弟君

と一緒になって麩をむしる余念なく、自然な笑顔と睦ましいささやきのうらやましさ。

敏は築山越しに拝むばかり。かの人の胸に入って秘密の鍵を手にしたく、機会を待って

いつの間にか一月、近づける様子もないのも道理、姫は高嶺の花でこちらは麓の塵、

しかし嵐は平等に世に吹くものだ。

 甚之助という香山家の次男は、末っ子とはいえ大物になりそうな、九つだが一家に

君臨して腕白さ限りなく、分別顔の執事の手にも余って、フランスに留学中の兄上が

戻るまではこの子にかなう者がいないのだが、姫とは一番の仲良しで何事にも中姉様と

慕うので、元々優しい姉は一段と可愛がっている。物淋しい雨の夜は燈火の下に書物を

開き、膝に抱いて絵を見せてこれはいついつの昔、どこの国に甚様のような強い人が

いて、帝に背いた賊を討って手柄を立てた帰り道、この馬に乗ったのが大将ですよと

説明すると大喜びして、僕も大きくなったら立派な大将になり賊なんか簡単に討ち取っ

て、このように本に書かれる人になってお父様やお母様にご褒美をもらうんだと威張る

と、姫は微笑みながら勇ましさを誉めて、そのような大将になっても私とは今と変わら

ずに仲良くしてくださいね、大姉さまも他の人もみな人の奥様になってしまうから私に

はお兄様とあなただけが頼りなのです。私は誰よりもあなたが好きでいつまでも一緒に

いたいので、大きくなってお屋敷を出る時には必ず一緒に連れて行ってお茶の間の御用

でもさせてくださいねと頬ずりをすると、しだれなく抱かれながらも口ばかりは大人ら

しく、僕が大将になってお屋敷を立てたらそこへ姉さまを連れて行き、いろいろごちそ

うして、いろいろ面白いことをして遊ぶのだ。大姉さまや小姉さまは僕を少しも可愛が

ってくれないから、あいつらにはごちそうもしないし、門を閉めて入れてやらずに泣か

してやろうと言うのを止めて、そのような意地悪を言ってはなりません、お母様が聞い

たら悪いではないですか。でも姉様たちは自分たちばかり演芸会や花見に行って中姉様

はいつも留守番ばかりしているじゃないか、僕が大きくなったら中姉様だけ方々へ連れ

て行って、パノラマや何かを見せたいな、あれにはいろいろな絵が生きているように

描かれていて、鉄砲なんかも本物みたいだよ、火事の所や戦の所もあって僕はとても

好きだ、姉様も見たらきっと好きになる。大姉様は上野へも浅草へも何度も見に行って

いるのに中姉様だけ連れて行かないのは意地悪ではないか、僕はそれが憎らしいのだ

と、思うまま遠慮なく言う可愛さ、そう思ってくれるのは嬉しいけれど、人に言っては

なりませんよ、芝居や花見に行かないのは私の勝手で、お姉さまは知らないのです。

もうこの話はやめにして、あなたが今日遊んだ、面白い話があったら聞かせてちょうだ

い、今日吾助はどんなお話をしたのですか。

 この大将の若様は、難なく敏の虜になっていた。姫との仲睦ましさを見てこれは利用

できそうだと竹馬を作ったことを手始めに、植木を教えたり、戦の話をしたり、田舎の

爺婆のおかしな話やどこの山はどれほど大きいかとか、どこの海には大魚がいて、ひれ

を動かせば幾千丈の波が上がって、それがまた鳥に化けてなど珍しい話や不思議な話、

取り留めなくつまらない話を面白おかしく話して機嫌を取ると、幼い者には十倍も百倍

もおもしろくて吾助吾助とつきまとって離れず、おもしろいと思った話を姫に聞かせ

る。吾助の話は嘘でないと信じて真面目に言うには、ホトトギスとモズはもともと同郷

人で、靴屋と塩売りだった。ある時靴を買って代金を支払えず借金を負ったモズは頭が

上がらなくなり、ホトトギスが来る頃にはカエルなどを草に刺しておいて、旅の食事に

させてお詫びをしているのだとか。これは本当の話で和歌にもなっているから姉様に

聞いて御覧なさいと吾助が言った、吾助は大層な学者で知らないことはなくて、西洋や

支那や天竺のことなど何でも知っていてその話が面白いから、姉様にもぜひ聞かせたい

な。前の爺と違って僕を可愛がってくれるし、姉様を誉めてくれる本当にいいやつだか

ら今度僕の靴下を編んでくれる時に吾助にも何か作ってあげてください、きっとですよ

と熱心に頼むのだった。そのおぼつかない承諾を若様は敏に伝える。こうなれば人目の

憚りもなくなり、見ることは稀でも姫の消息は日ごとに手に取るばかりとなって、何か

ありげな心の底もおぼろげながらにわかってくると、愛しさの念は耐えがたくなり、

これほど身を尽くしているのだから、木石でない姫からも憎まれるはずがない、この

いばらの中から救い出さねばと、まだ形にもならない恋なのに2人の侘び住まいなどを

想像している。

 

 親心は子のために道を迷うこともあるだろうと目を付けてみると、香山家の三人の娘

のうち上は気難しく、下は活発で器量もそこそこだがかの人には遠く及ばず、これでも

姉妹かと思うほどの違いである。母親の様子が怪しく、流石に軽々しく下々の眼に分け

隔ては見せないが、同じ物言いでも何となく苦みがあり、つらいだろうと思うところが

時々見える。

 子爵様には最愛の、桐壺の更衣のように優美な思い者がいたのだが、女ざかりに肺病

にでもなったのか。奥方は妬み深く、形見の娘を父君が深く可愛がるのを憎らしく思っ

てしかるべき縁にもつけず生殺しにして、周りには我がままの気まま者だと言い立て

て、その長い舌に父君をも巻き込んでしまったのであろう。この家に姫に心を尽くす者

はなく、いるのは甚之助殿と自分だけなのだ。この心を筆にして、機会が来たらどこか

へ連れて行こう、その後の策はまたどうにでもなるだろう。一時は陸奥名取川、清か

らぬ名を流してもいいだろう、差し障りの多い世の中だが、天の導きがあって自分は

ここに来たのかもしれない。今こそ名もない貧しい学生だが、いつか姫を幸せにして、

不名誉を取り返すことは簡単だ。さてと筆を取って一晩中書いていたが、蓮っ葉でない

令嬢が庭男などに目を向けるはずがないので、最初から恋文だとわかっては触りもしな

いのではないか、どうすればよいかと思案に暮れたが、まあよい、人に知られるのは

どのみち同じ、度胸で行こうと半紙四五枚を二つ折りにして墨を濃く薄く、文か何かと

紛らわせて何事かを書き、わざと綴じて表紙にも何か書き、これがうまくいくようにと

夜の明けるのを待っている。知らぬばかりは家の人、用心のために隣境の茅葺の小屋に

住まわせている庭男が曲者であったとは。

 日の光がうらうらと霞み、朝露が花に重く、風を吹かせて蝶の眠りも覚ましたいほど

の静かな朝、甚之助は子供心にも浮き立って、いつもより早く庭に駆け下りると、若様

とすかさず呼んで笑顔を見せた庭男にそのまますがりついて箒の手も動かさないように

して、吾助、お前は絵が描けるかと突然言うおかしさ、絵も描きます、歌も読みます、

やぶさめでも打球でもお好み次第と笑うと、それならば絵をかいておくれ、夕べ姉様と

賭けをして、負けたら小刀を取られてしまう、僕は吾助が絵を描けると言ったら姉様は

描けないだろうと言うのだ、負けたら悔しいから姉様が驚くほど上手に、後とは言わず

今書いておくれ掃除などしないで、と箒を奪うので吾助は困って、描いてあげますが今

は少し待ってください、後で吾助の部屋においでなさい、騎馬武者を書いてあげましょ

うか、山水の景色がよいですかと紛らわせると、いやいや、今でなくてはどうしても

いや、後などと言っているうちに負けて小刀を取られてしまうから駄目、どうか今書い

ておくれ、筆と紙は姉さまのを借りてくるからと箒を捨てて走り出すのを、まあお待ち

なさいとあわただしく止めて、すぐというのもわかりますが、下手な絵を描いたら姉様

に笑われて若様の負けと言われますよ、こうしましょう、絵はまた後日のことにして、

吾助は絵よりも歌の名人で、田舎にいた時は先生だったのですよ、だから和歌を姉様に

お目にかけて驚かせましょう。必ず若様の勝ちになりますよと言えば、早く詠んでおく

れとせがむところに懐から例の文を出して、これはとても大切な歌で人に見せるもので

はないけれど、若様を勝たせるために、ほかの人には内緒で姉さまだけに見せてくださ

い。早く内緒で姉さまにと三つ四つに折って甚之助の懐に押し込んだが、無心なので

何とも気づかわしく、落とさぬよう人に見せぬようとくれぐれも教えて、早くおいでな

さいと言えば両手を胸に抱いて一心に走り出す甚之助。落としなさるなと呼びかけも

できず、はっとして四方を見ると、花に吹く風が自分を笑っているよう、人目はないが

どこまでも恐ろしく、庭掃除もそこそこに誰にも会わないようとしている敏。これほど

小胆だとは思わなかった。

 思う人ほど恥ずかしく恐ろしいものはない、女同士の親しい仲でもこの人はと敬う人

には、差し向って何も言えず、あくまで恥ずかしく、あくまで恐ろしく、ちょっとした

ことでも身に沁みる。男女の仲でもそうだろう。甚之助が吾助を慕うのはそれに比べて

淡いものだが、それでも好きな人の一言は大変重く、文を懐にして姫の部屋へ来た時に

は末の姉君がいて細工物をしていたので、今見せてはいけないと事情は知るはずもない

が、吾助とも言わずに遊んでいた。すると甚様私の部屋においでなさい、玉突きをしま

しょうと立ち上がったので、早く行けとばかりに障子を閉めて、姉様これと懐から見せ

て、吾助は絵も上手だけど歌の方がもっと名人なので、これを御覧に入れたら僕が勝つ

と言ったのだ、勝てば僕のナイフはそのまま、姉様のごむ人形はいただくよ、さあ下さ

いと手を出すと、姫は微笑みながらいやよ、お約束は絵なのだから歌ではだめよ、ごむ

人形はあげませんと首を振ると、それでもこの歌はとても大切だから人に見せずに落と

さぬように御覧に入れろと吾助が言ったのだから、絵よりもよいに決まってる、人形を

下さいと手渡しされ、何気なく開いて一二行読んだところでものも言わずに畳んで手文

庫に納めたので、その顔をいぶかしげに見ながら姉様人形をくれますかと聞く。あげま

しょうとわずかにうなずいた姫、甚之助は喜んで立ち上がり勝った勝ったと大喜び。

 

昔の寄席 馬場孤蝶

                                                                                                         これ昨日の写真                                                         

                  一

 雨の音しめやかな夜などに、独り静かに物を思い続けて居るうちに、今まで別にそれ

程遠い事のようには思って居なかった自分の少年時の事などが、成る程随分前の事で

あるのに気が附くことがある。

 五十位な吾々に取っては、自分から俺は老人だと思うことは、甚だ困難である。

然し、若い人々は吾々を老人だと思って居るに違いないし、又そう思うのは尤もな事で

ある。

 吾々自身も青年時には、五十位の人を見れば、可なりな老人だと思って居た。そうし

て見れば吾々が自ら老人たることを承認するとせざるとに拘らず、若き人々から老人を

以て遇せられることは全く已むを得ないことである。

 されば、寧ろ自分も老人たることを承認して、精々古い方へ回ってしまう方が、骨の

折れぬみちかとも思われる。

 けれども、小生は生憎余り古い事を知らぬ。高々今より三十年前位のことならば少し

知って居る。これでは、昔物語とするには価値がないわけであるが、又一方から考える

と、それでも何かの足しにはなるような気もする。近来江戸研究とか、江戸趣味などと

いうことが云われだして、幕政の時分の事などは、書物になって居るものが多いけれど

も、明治十年位から二十四五年位までの市井の雑事は、江戸研究のなかには当然含まれ

て居ないのだから、存外文書になって居ないように思う。江戸時代の事を調べれば、

それで古い事のオーソリティになれるのであるが、知って居る人の今大分生きて居る

明治の事を書いたところで、誰もエラいとは云いはしないばかりではなく、それは斯う

違うああ違うと方々から槍が出る。賢き今の人はそんな損の多い仕事を買って出ること

は先ずしないのだ。しかし、そういう割合に近い時代の事であっても、もう二十年も

経てば、大分古い事として取り扱われるようになろうと思われるので、そういう時代に

なった際の参考にもと、吾々の青年時の市井の事を時々書いてみようと思って居る。

 左に記する寄席の事は、全くそういう追憶記の一つである。

 

                   二

 落語を何時頃聞き始めたのか、確な年代は今思い出せないが、小生の十二三の時分か

と思う。本郷の大学病院へ出入りの貸本屋があったが、それは、中背で何方(どちら)

かと云えば丸顔な、道具立てのはっきりした容貌の男であった。所謂キリリと締った顔

立ちであったのだ。年齢は幾つ位であったか、少年の考では確でないが、もう三十近い

男であったような気がする。

 断って置くが、勿論その時分の貸本屋のことであるから、今のような活版本を持って

歩く訳では無い。八犬伝、弓張月、水滸伝、三国誌というような木版のものをば背負っ

て、方々を回るのであった。

 その男が落語が旨いそうだと誰かから聞いたので、本を貸しに来た時に、うちの者が

大勢で、一つ落語をやってみろとおだてた。貸本屋はその時二つばかり短い話をした。

 一つは斯ういうのであった。或る侍が茶店に休んで、婆さんに此の辺には白狐が出る

ということだがときくと、婆さんはそういうことはございませんというので、侍がイヤ

それでは大かた人の説だろうと云って行ってしまう。職人がそれを聞いていて、侍の

真似をしようと思って婆さんに此辺にはダッコ(脱肛)が出るそうだねと聞く、婆さん

はそんなきたない物は出ませんと答えると、職人は、大かた人のケツだろうと云った。

 も一つは、嫁いびりの姑が、浴衣へ糊のかい方に就て、無理を嫁に云いかけて、まだ

糊が足りない足りないと云って、浴衣がごわごわになって袖がまるで突張ってしまうま

でに糊で固めさせてしまう。それを着て門口へ出て居ると、前の二階から子供が、向う

の伯母さんお茶あがれという。姑はノリ(糊)がコワくて行かれませんと云ったという

話である。

 田舎者であり且つ子どもであった小生には、落は両方とも解らなかったが、全体と

しての話の調子だけは何うににか解かったので落語というものはなかなか面白いものだ

という印象は受けたのであった。

 そのうちに、母などが主唱で、寄席へ行くことになった。初めて行った寄席は、今の

本郷の電車交差点から切通しの方へ向って行くと、右に日陰町へ曲る横町があるが、

その角にあった荒木亭というのであった。それは、当時二流以下の寄席であったろうと

思うのだが、木戸銭は四五銭のところであったろう。吾々はその時分は敷物代を倹約

するために、毛布を持って行ったように覚えて居る。

 荒木亭で何んな話を聞いたのか、大抵今は忘れてしまったが、その中にたった一つ

記憶に残って居るのがある。

 酒飲みの爺さんが、娘を売った金を持って帰る途中、居酒屋の前を通り過ぎることが

できなくって、一寸一杯という心算(つもり)で、入って飲み始める。所が、あと引き

上戸のことであるから、もう半分、もう半分とだんだん飲んで行くうちに、とうとう

ぐでんぐでんに酔ってしまって、財布を忘れて出て行ってしまう。居酒屋の夫婦はその

財布を隠してしまって、爺さんが酔いが醒めて、財布をさがしに来ても、そんな物は無

かったと云って渡さない。爺さんはその金がなければ何うにもならない身の上なので、

身を投げて死んでしまう。居酒屋の方は、その爺さんの金で、だんだん店を広げて、

商売が繁昌して可なりな身上になった。そのうちに夫婦の間に子どもが出来た。乳母を

雇ったが、何ういうものだか、皆二三日たつと、ひまを取って帰ってしまって、居附く

者が一人もない。亭主が何うも合点のいかぬことだと思って、一と晩ねずに番をして

居ると、真夜中になって、赤んぼがそろそろ寝床を抜け出して鼠入らずから湯呑を取り

出して、旦那もう半分と云った。

 此の話は、爺さんが居酒屋でもう半分もう半分と云うところは可笑味で十分笑わせ、

財布をさがしに来るところから、調子を引きしめだし、夜中の怪談は十分凄く話して、

落のもう一杯で、客を笑わすという話し方であった。

 元より善い寄席ではなかったので、咄家も善い芸人ではなかったのだろうが、今の

記憶では、何うも話し方が旨かったように思われる。落を余り聞かないうち、而も子ど

ものうちのことであるから、何がなしに旨かったように思われたのであるかもしれぬ

が、しかし又他方から考えると、当時の咄家は中流どころでも、今の咄家より芸がずっ

と上であったかも知れないのだ。

 此の話は、その後何処でも聞いたことがない。当時でも善い寄席ではしない話になっ

て居たのかも知れぬ。

 

                  三

 所謂怪談ばなしなるものも、当時ではよい寄席には出ないものになって居たように

思われるが、荒木亭には佐龍というのが、懸ったことがある。

 話は、侍が腰元を殺すとか、家来を殺すとかして、その死骸を埋めに行くというよう

なところまで話して、それから、高座と客席の燈を消し、薄暗い中で、死骸を埋めるよ

うな所作がある。鬘位は附けて居るようであった。そのうち、あっと叫んで、その男が

倒れたようで見えなくなってしまうと、幽霊がそろそろと高座の隅から現われ、煙硝の

煙か何かが裾の方でポッと立つ。時には高座の直ぐ下位へは下りて、引込んでしまうの

だ。ハテ恐ろしい怨念じゃなァとか何んとかいうような白(せりふ)が聞えて、燈が

つくのである。

 昔は幽霊が客のなかを歩いたなどという話も聞いたのであるが、吾々の時分にはそん

な事はなかった。

 荒木亭に懸った一座のなかで、今一つ覚えて居るのは、しん粉細工の何とかいう男で

あった。前芸にしん粉細工をやるというのならば、兎も角であるのだが、これは真打で

あって、出来上ったのを、籤引きか何かで客に呉れるのであるから、荒木亭の寄席と

しての格式も大抵それで知れようと思うのである。

 荒木亭は明治十七八年頃には最早潰れて居たかと思うが、その後牛肉屋のいろはに

なって居たことを覚えて居る。今はその家は取り崩されて、その地面の一部分に農工

銀行の支店が建ち、他の一部分が瓦屋か何かになって居る。

 日陰町の岩本は、内部へ近頃入ったことがないので、それは何うかわって居るかも

知らぬが、外部はそうたいして違って居なかろうと思う。

 小生は、十三四の時分かと思うが、岩本へも行った覚えがある。一人で行ったのだか

ら、大抵は昼席であったと思うのだが、聞いた話のなかでは、渋川伴五郎が霧島山

土蜘蛛を退治する話と、姐妃のお百とが記憶に残って居るのみである。講釈師の名など

は覚えていない。

 講釈専門の寄席は本郷近くでは、上野の広小路に本牧亭というのがあった。これは

今の鈴本の筋向うあたりであったから、今何んとかいう蕎麦屋兼料理屋になって居る

あたりにあったのではなかろうかと思う。

 神田の白梅はその当時は位置が好かったので、眼に立つ講釈席であった。小柳のある

町はその時分は横町であったので、講釈好きの人が知って居るだけであったろうと

思う。

 白梅は今はもう講釈席ではない。此の頃は、田町あたりでも、白梅へ行くとは云わず

にしらんめに行くと云うのだそうだ。時世の変化がこんなところにも窺われて、微笑を

禁じ得ない。

 白梅で憶い出すが、明治十二年頃のことだと思うけれども、白梅の右手の裏を入った

ところに茶番狂言の常小屋があった。

 父の知人に連れて行ってもらったことを憶えて居る。

 掛合話か何かで、侍が亭主と客と二人で庭を向いて話して居るうちに、客が庭をほめ

ると、亭主が植木屋に作らせたという。客がさすがに餅屋は餅屋で御座るという。亭主

はイヤ植木屋で御座るという。それでも、客は矢張り餅屋は餅屋で御座るなと感心して

居る。亭主はイイヤ植木屋で御座ると奴鳴るので、看客は大笑いするのであった。後は

弥次、喜多が盲按摩におぶさって川を渡る場と、長兵衛の鈴ヶ森が出たように覚えて

居る。

 近頃その常小屋のことを、人に話しても知って居るという者がない。或はその小屋は

その後まもなくなくなってしまったかも知れぬ。

 

                   四

 序だから、なくなった寄席を二つ三つ書いてみようか。本郷の元富士町に伊豆本

いう寄席が出来たことがあった。位置は消防署の隣のところであった。出来たのは明治

二十二三年頃かと思うのだが、此の寄席は明治三十一年頃にはもう潰れて居て、あとが

甲子飯になって居て、斎藤緑雨などと、懐中都合の悪い時分に、其処で一二度飯を食っ

たことを覚えて居る。

 これは伊豆本よりも後で出来たと思うが、菊坂に菊坂亭というのがあった。勿論格の

低い寄席で、源氏節だとか、浪花節とかいうようなものしきゃ懸らなかったのである

が、近頃まで商売を続けて居たようであった。けれども、今は病院のようなものになっ

て居るようである。

 大横町_壱岐殿坂の通り_弓町の裏に、低級な寄席が出来て居たことを記憶して居る

が、これも何時の間にかなくなってしまった。

 小石川の初音町に鴬橋というのが大溝にかかって居て、その袂に初音亭というのが

あった。場末の寄席らしい絵看板などを時々見かけたのだが、今はもうなくなってしま

ったろう。

 麹町の山王町の山王へ下りる角のところに、山長というのがあった。これは女義太夫

の常席であったかも知れぬが、今はその跡が薪屋になって居る。

 九段坂の鈴木写真館の東隣に富士本というのがあったが、これは可なりな寄席であっ

た。今はその跡が仏教の講義所になって居る。

 小川町の小川邸は女義太夫の常席として、名のあった寄席であったが、今は改築され

て、天下堂になって居る。

 下谷の数寄屋町の吹抜というのは、心持の好い寄席であったが、何時の間にかなくな

ってしまった。

 旧両国の橋詰から左に、柳橋の方へ出る横町があって、その角に新柳亭という女義太

夫の常席があった。川縁で、裏は大川であったのだから、一寸、心持のかわった面白い

寄席であったが、両国橋の架け更(か)えられると共に、彼(あ)の辺の模様がかわっ

て、新柳亭もなくなってしまった。

 京橋の南鍋町の鶴仙は風月堂の横町の左側であったと思うが、これも今はない。

 麻布の十番あたりであろうと思うが、福槌という寄席があったが、これももう今は

なかろうと思う。

 日本橋では、木原店(だな)の木原亭だの、瀬戸物町の伊勢本などが、名の聞こえた

寄席であったが、今は一向名を聞かぬ。或は二軒ともなくなったのではなかろうか。

 斯ういう風に、なくなった寄席が随分多いのであるから、新に出来た寄席も大分有る

には有るけれども、総数から云えば減って、増して居る気遣いはなかろうと思われる。

 けれども、近来では、郡部に近い昔の全くの場末が開けたので、其処には寄席の出来

て居ることを見かけることがあるので、或は中央部では減ったが、場末ではふえて居る

ので、結局総数は三十年位前と同じだという訳になって居るかも知れぬ。

秋日散策 馬場孤蝶

   

          渋谷あたりの追憶

 下渋谷の道玄坂の中程から左へ入ったところの丘の上の、名和男爵邸のなかの家に

与謝野寛君が住っていて、そこを僕が訪ねたのは明治三十四年の冬か翌三十五年の春か

であったと思う。与謝野君はそれから少しして、その近くの崖の下の、回り縁のある家に越した。千駄谷の徳川邸の西側の方へ越したのは日露戦争の少し前ぐらいであった

ろうと思う。

 その時分の文学者の生活を思うと、今とは全く隔世の感がする。僕などは、とにかく

外に定収入のあるみちがあったので、どうにかこうにか暮らしていたが、文学を職業に

していた人々の生活に至っては、全く奮闘の生活、背水の陣というべきであった。原稿

の売先が僅か二三ヶ所しきゃなく、その上に、稿料の高もいうに足りないものであった

ことは、ここにいうまでもないであろうが、従って、社会的にも人として、何等認めら

れて居るのではなかった。

 新詩社の『明星』は当時の新文学の大きい、華やかな幟じるしであり、吾々若き文学

者の奮戦のラリイング・ポイントであったといって宜しかろう。『明星』が当時の新文

学の伝統を支持すると共に、後来の進展に対する足場を作ったことは、何人も疑い得ざ

るところであろう。殊に詩と短歌の部面においての新詩社の大功績は明治文学史上に

燦として輝いて居る。

 与謝野君御夫婦はよくまァあのような全く惨憺たる生活苦を忍びながら『明星』の

刊行を続けられたと思う。文学、詩歌に対する熱愛の然らしむるところであったことは

いうまでもないのであるが、それにしてもあの忍耐と勇気は、今思い出すごとに、感嘆

の念を禁じ得ない。

 僕はこの頃、時々道玄坂の横町にある古本の即売会を見に行くので、あの辺の変り方

に眼を見張ると共に、与謝野君御夫婦の下渋谷時代、千駄谷時代のことを思い出して、

感慨深きものがあるのである。

 土地の変り方は全く滄桑の変と謂っても然るべきくらいであろう。宮益坂道玄坂

も、昔は道幅のグッと狭い、もっとズッと急な坂であったことはいうまでもないであろ

うが、渋谷の駅ももう少し南に寄っていて、昇降口は西の方にあったような気がする。

これは駅が大きくなったために、今のようになったのではあるまいか。

 上田敏君と一緒に宮益坂を下りて、与謝野君を訪うたことを記憶するが、坂は両側が

生垣になっていて、僅かに五六間幅ぐらいな路であったような気がする。坂の下の踏み

切りを越えると、両側は水田であったように思う。全く広重などの絵にありそうな地景

であった。道玄坂へとあがって行くと、坂がいわばおでこの額のように高くなって居る

あたりの左の方に狭い横町があって、それへと曲って、与謝野君の家へ達するのであっ

た。そして、この路は環状をなして、東の方へと曲って、渋谷の駅へ達していたと記憶

する。多分この路は線路を越して、渋谷から目黒の方へ続いている路へ合するのであっ

たろうかと思う。

 

 今年の四月二十五日の午後であったと思うのだが、渋谷の即売会の帰りに与謝野君の

故宅のあたりを唯心あてに歩いてみようと思った。勿論、地図も何も見て置かなかった

ので、ただ全くの当てずっぽうの散策であった。道玄坂を一町ほど上って行ってから、

左へ下りてみたが、どうも少し昔の路よりも西へ寄りすぎたのではないかと思った。

勿論、何もかも変ってしまったので見当も何もつきはしない。

 直きに大和田町というのへ出てしまった。伊藤旅館というのは、俳人の伊藤鷗二君の

お宅かなどと思いながら、歩いて行くと、路は少しく高くなって、南平台というのに

なった。これでは与謝野君の昔の家のところなどは、もうとっくに通り越してしまった

ことは確なので、せめて、恵比寿の方へ行く谷あいの路へ出ようと思ったのだが、桜

丘、鶯谷などというのがあって、その先きでやっと、省線にぶつかった。それを越して

からが、昔の道になるのではなかろうかと思ったのだが、昔は森だの、藪などばかり

しきゃ見えなかったところを、今は何処を見ても、アスファルトの坦々たる道が通じて

居るという有りさまなので、余りの変りように、ちょっとぼんやりした形になって、

つい線路の西側を通って、公会堂通りを経て、恵比寿へ出て、田町行きのバスに乗って

しまった。

 何しろ、もう三十年程たって居るのであるから、変るのは当然なことではあろうが、

吾々には郊外の変革は実に驚くべきものがある。その前三十年間はそんなに変らなかっ

たと思う。少くとも、僕らが少年時代から壮年時代までの二十年間は、市内でさえも

変らないところが幾らもあったと思う。人々が郊外に家を求めだしたのは、先ず明治

四十年以後のことと見て宜しいのであろう。その後、大正八九年頃から、市内の住宅難

が始まりはしたものの、震災がなかったら、ここまでの郊外の大発展は見られなかった

ろうと思う。つまり、この大変化は先ず正味十五年ぐらいの間のことである。全くよく

もこう変わってしまったものである。

 与謝野君の渋谷の家を訪ねた時分には、僕は麹町の飯田町、小石川の金富町などに住

っていたので、牛込から新宿までは汽車で行き(電車にはなっていなかった)それから

渋谷まで歩いたものであった。その路は例の大きな欅の立木で囲んだ家などがあり、

また、野草が茫々と生えた野原のようなところもあったりして、如何にも田舎路らしい

気がして、面白かったので、代々木で乗換えはせずに、新宿まで行って、回り道なが

ら、甲州街道を少し南行してから、左へ折れて、前記のような田舎めいた路をたどっ

て、道玄坂の下へ出るのであった。その路は今は変っていることは勿論だとは思った

が、それはどんな風になっているのであろうか、ためしに歩いてみようという気になっ

た。それには先ず千駄谷から新宿の方へ向けて行き、渋谷へ向かう路のどこかへ出る

ようにしようと思ったのだ。

 渋谷を歩いた翌日の二十六日には、四谷の大木戸から千駄谷の方へ歩いてみた。

 

         千駄谷あたりの追憶 

 与謝野君の千駄谷住いの時分には、僕は牛込の弁天町にいたので、よく与謝野君を

たずね、大抵は深夜になって帰るので、車で送って貰いもしたが、徒歩で帰ったことも

度々であった。

 夜なかの一時頃に、千駄谷駅から、御苑に沿うて北行すると、水車があって、小さい

橋があり、それを越して、内藤町へ入って、大木戸へ抜けるのであったが、その間が

如何にも淋しい路であった。

 僕はその路を逆に歩いてみるのであった。大番町の広い大路を横ぎって、内藤町

曲がり、真直ぐに行ったが、このあたりは屋敷が皆綺麗になったのみで、路の模様は昔

のままのように思った。路は自然に左へと曲って、大番町の大通りへ出てしまったが、

右手に小さい橋がある。池尻橋となって居る。(古い東京図には沼尻橋となって居る)

その橋の向うは、土地が一段低く谷あいのようになって、昔の水車の面影を止めた家が

ある。橋を越すと、右は御苑の木立で、左は前記の家の板塀になって居る。このあたり

も勿論昔の形を大体残して居る。路はまた、大番町の大通りへ合してしまうのである

が、それから先きが、昔の記憶とは合わないように思われたのである。もとより鉄道線

路は少しだらだら上りの坂の上にあったきりで、今のような高架線ではなかったのだ。

それはそれとして、凡そこの辺りにあった筈だと思うあたりに千駄谷の駅らしいものは

見えないのだ。それで、まァとにかく歩いてみろと思って、広い路を直行して、右へ

曲がり、商店などのある可なり賑やかな通りを西行してから、左折し、神宮の手前から

右へ曲って、代々木練兵場の北口へ出たのであるが、僕の昔通った渋谷への道は神宮に

沿うていく訳になるのであろうとは思われたけれども、往来止めになって居るので、

引っ返して、練兵場の丘の下を、小川に沿うて、南をさして進んだのであるが、だん

だん見当がつかなくなったので、代々木八幡という小田急電車の駅のところから、バス

に乗って渋谷へ出てしまった。

 昔、新宿から僕などの歩いた路は、どうしても今は練兵場の中へ入ってしまって居る

のだと思う。昔の路は渋谷へ可なり近くなって来たところに、陸軍の衛戍監獄というの

があった。そういう点から考えると、その路は大体現今の神園町とか、神南町とかいう

あたりを通り、刑務所の東を通り、今の宇田川町から、神宮通りへ出て、道玄坂下へ

出て来るようになっていたのであろうと思う。現今の小田急に沿うた低い谷あいの路

ではなかった。どうしても谷の上の路であって、監獄のあたりから渋谷の方へ向けて

ちょっとした坂になって居ったと思う。

 今より二十年ぐらい前までは、旧市内からほんのちょっと歩み出すと、全くの田園

らしい野景に接することができたのであるが、今はどうして、吉祥寺とか、砧とかいう

ような新市外まで行ったところで、昔のような自然の勝った景観は見られなくなった。

農家は勿論、畑も、田も、何んだかずっと綺麗になってしまったように見える。

 

 この月、即ち九月の十九日の午前、大番町から内藤町、池尻橋という風に千駄谷へ

向けて行ったが、どうも矢張り駅へは出で得ずに、霞丘というあたりを通り、池尻橋の

ところの川の下流であろうと思うような小流れを見、原宿、隠田を通って青山北町

出てしまった。その翌日二十日午前には、信濃町から歩いてみたが、やはりなかなか

千駄谷の駅へは出ない。どうも駅は昔の位置からは西の方へ移ったような気がするの

で、この日は御苑に沿うて曲って居る狭い路をたどってみたが、今度こそは駅の右手へ

出ることが出来た。昔の駅は池尻橋からこんなには離れていなかったと思う。路はその

時分は駅の右手を通って、徳川邸に沿うて左折し、そこが住宅地になって居った。とこ

ろで、線路と徳川邸の間は二尺ぐらいの高さの土手で囲まれた空地になっていた。与謝

野君のうちからの帰りに、森鴎外さんやその外の人々と共に、この路を夜歩いたことが

ある。日露戦争の直後であった。森さんが軍刀の欛(つか)を握って、こじりが土に

つかないように引き上げて、気軽に人々と話しながら、ぬかるみをよけよけ歩いて居ら

れた姿が今もなお眼前にありありと思い浮かべられる。

 当時の徳川邸は西の方が裏手になって居った。そこは茶畑になって居ったようであっ

た。明治二十年か二十一年かの晩秋、徳川邸での流鏑馬と騎射の天覧は、この茶畑に

なって居る場所においてであったろう、その時の騎手のうちでは、今京都に居る小笠原

清通氏の外には、今は幾人も残って居らぬであろう。

 千駄谷の駅が西の方へ移ったものだとすると、徳川邸も西の方へ広がったものと思わ

ざるを得ないのだが、そうなると、与謝野君の住んで居られたところは、現今の徳川邸

の南になるか、あるいは、徳川邸の中へ入ってしまった訳かになるのだろう。与謝野君

生田長江君の住宅からは、現今の鳩森八幡は少し西寄りになって居ったように思う。

それとも、そういう住宅地は、今の徳川さんの正門前の路を隔てた西の方の宅地のなか

になって居るのであろうか。どうも今の千駄谷駅の位置から考えると、そうではなさそ

うに思えてならぬ。僕は、そんなことを思いながら、八幡に沿うた路を下り、何時の間

にか、渋谷へ向かう環状道路へ出て、参宮道を横ぎって、渋谷まで歩いてしまった。

 ところで、ここに一つ僕に取ってわからぬことがある。それは池尻橋の下の川は新宿

の裏手を通って、昔の内藤候邸(今の御苑)を抜けて出て来る旧玉川上水であって、

赤羽川の上流になって居るのであるが、この川が一体どういう風に流れて居るのであろ

うかという点である。隠田を流れて居るのも、代々木練兵場の西麓を流れて居るのも、

同じ川であって、それが昔の渋谷駅の東を通り広尾へ出て、天現寺を過ぎるという訳に

なって居るとも思われるし、文化の江戸図も嘉永の江戸図にも、この川は大木戸のとこ

ろから一筋になって居るのだが、嘉永の切図を見ると、内藤邸の西の方にもう一つ玉川

上水の分れらしいものが一筋ある。どうも、この流れも、どこかで、前記の大木戸から

の流に合流して居るのではなかろうか。古い郊外図か、五万分の地図でも調べて見たい

と思って居る。