樋口一葉「うもれ木 三」

                  五

 床下のこおろぎが鳴いて、都大路に秋を感じる八月の末、宮城の南三田の近くの民家

二、三十戸を買い取って工事を急いでいるのは何だろう。立てた杭には博愛医院建設地

と黒々と記され、積み上げた煉瓦の土台に木遣りの声がにぎやかな中で四方に聞こえる

のは篠原辰雄の声、浮世の憂きを憂きと捨てず、薄っぺらな人情が浅ましいと孤軍奮

闘、世を愛し民を助けようとしている。微力で不肖の身であるが、倒れて止まんのみ、

今日の貧民の困窮のありさまを見るに断腸の思いは天上人にはわからない、火のよく

起こった火鉢を横に話の花を咲かせ、おもしろいと見ている雪の日に、貧しい人妻は

凍え涙は凍る。立派な建物に岐阜提灯(装飾用)を連ねて風を待つ納涼の夜、蚊遣火の

下で泣く子供がいる。特に哀れなのは病の禍、名医がいて良薬はあっても、求めること

も得ることもできない。天命でもなく業でもなく、救われるべき命をみすみす捨てなけ

ればならない残念さ、妻の命、子の命はどのくらいあるのだろう、人は悪意なく生まれ

てくるが困窮すれば徳不徳の取捨の猶予はなく、天を恨み地を恨み、倫理は乱れて国家

の末は全く危うい。これを救うためには仁愛が必要だと自ら資産をなげうって救世に

着手し、一方では富国利民の策を講じ、一方では富裕層に協力賛助を頼み、道義を行う

ものに孤独はない(援助がある)と、何某の殿や長官などが雷同して意気投合し、それ

からそれへと話が通って徳義を一つの名誉と心得る同胞が共鳴し、見ぬ人聞かぬ人から

も名を慕われ、あっぱれ仁者と知らぬ者がいないようになった。

 その行い、その言葉を見るにつけ聞くにつけ、交わり親しむにつれ頼三は次第に尊敬

が深まり、この人を置いてほかに援助は頼まないと決めて、我儘の角はこの人の前では

折れ、鬱々とした思いを抑えがたくなって自分の仕事の疲弊や不振の話をした。

 「斯道挽回の志は一日も絶えないが、実を言うと勢力のないものの言うことなど誰も

聞かず、なまじ説くほどに人の物笑いとなってさらには後ろ指まで差されることが悔し

い。しかしそれも道理、私はこの道に入って十六年でまだ一度も共進会(品評会)で名

を上げたこともないのだから。私の自由な筆は貧しさに縛られはしないが、直情を憎ま

れて問屋受けがよくないので注文は安物のほかなく、何も心に合わずどこで筆を奮えば

いいのか。不満が募り何の世の中、開きめくらどもにはこれが相応だと投げ出して、

意匠も凝らさず鍛錬もばからしくなって作品を汚してしまう。無念の涙を呑んで衣食の

ために作る粗品はほかのものと変わらないので、口ほどにもない駄物師と嘲られ、私の

名はいよいよ地に落ちてしまった。年季をかけて鍛錬した筆も、苦心を重ねて凝らした

意匠も心にあるだけで表すことができず、男の精神を傾けてもことの成らない不甲斐な

さ、世に人に目がないのか自分が迷っているだけなのか、誰とも話し合うこともないの

で、前途が暗いまま幾年も重ねてきた。君も一度は斯道の流れに立った人なので汲み

知ってくれるだろう、何か名案があったら教えてください」と胸中を打ち明けた。辰雄

もしきりに嘆じて「なんと心が合うものだ、私が国家に思うこともその他にない。徳義

の敗退、人情の腐敗、これを憂いあれを憂いても道に立つ人の大半は濁流に身を投じ、

汚れを知らぬ味方は少なく敵は多い。しかし捨てずにいれば成り立つこともあり、二人

三人の正義の士と出会ったのが今回の事業、はばかりも多いがこれを手本と見て、受け

入れられない世を捨てずに腕限りのものをこしらえてみてください、その資金は私が

持ちましょう。潔癖な君は潔しと思わないかもしそれは君一人の小事だ、幾多の画工の

目を覚ませて国益の一助となるのだ、迷うことはない、我が国の陶器は価格は安いが品

は西洋に及ばない、ただ薩摩だけは他に類なくあっぱれ名誉の品なのに惜しくも画工に

気概なく、問屋に精神なく、今日の成り行きは悔しいばかりだ。私にも長年の思いが

ある、不思議にも心が合うのは時期が来たということだ、それを外してはならない」と

熱心に力添えをすると、頼三は感涙に濡れて「よろしくお願いします」と生まれて初め

て言う言葉。辰雄はその後を言わさず聞かず、「ことは一切ここに」と胸を叩いた。

 幾日か経ち、三田の工事のやかましさと共に画工たちが耳をそばだてることが起き

た。如来寺前の草深くで埋もれている慷慨先生が三年鳴かず飛ばずの技量を表すという

噂、それをくじこうというのがそれら輩の常、陰に日なたにあれこれ言われても後ろ盾

は確かな身、かえって気分よく心静かに素描の筆を下ろした。沈寿官(名工)が精製

した生地を選び、三尺の細口(花瓶)にして台つき龍耳(取手)の一対、百花咲き乱れ

燦燦たる金色を見られるのは幾月後になるか。心は未来に馳せて、人物景色が目の前に

浮かんで知らず知らずにほほ笑む頼三。「王侯貴族に劣らない気分だ」世の塵から遠く

離れて仙境に入る心地、日が経つのもわからずに明け暮れしている。

                 六

 恩を感じ行いに敬服し、神とも尊ぶ人から、隔てなく睦ましくしてくれることがもっ

たいなく嬉しくて、篠原という名を知らなかった最初の身に沁みたできごとから、慣れ

ていく月日が経つほどに、可憐な胸は闇の中。お蝶のあくまで優しい姿は脆く見えても

立てた志は表さず、火水の中も厭わないと思い込んでいる。命は仮の世のものと決めて

二つの道は踏まない気性だ。「私は身分が低く教育もない、あの人は世に敬われている

お方、かなわない願いだ」とわが身を叱っても思いは断ち切りがたく、深い思いと共に

一生一人でいようと観念しているが、さすがにそれが揺らぐのが折りふし耳にする世間

の評判、よいことを言われれば喜びは格別、「何某子爵の愛娘をぜひ彼にと」などと

申し込みの噂を聞くと胸が轟いて、そことなく兄に聞くと「大丈夫だ」と笑って退けら

れるばかり。しかし頼三も気になるので翌日の夜訪れがあった時にそのことを言い出し

て本当かと聞くと、「嘘ではない、旧大名の幾万石とか、聞くだけでも耳うるさくて、

五度も六度も断ったのにいまだに仲人殿が無駄足に来るのでおかしいのだ」と辰雄は心

に留めていない様子。「なぜ断るのですか、まだ若いとはいえいつまでも独身ではいら

れまい、望みや好みがあるならともかく決めてもよさそうだが」と頼三は心に含みあっ

て言うと、独身で終わろうとは思っていないが、華族の婿になろうという願いはなく、

姫様を妻に持ちたくもない。香道華道茶の湯を決まりばかり整えて、お役目の学問を

少々したくらいでは何になるものでもない。世間の困難を踏んだこともない、一人で人

と話したこともないような、お人形のような奥さんを持ち込まれて親の七光りを受ける

など嫌なこと、私の望みは身分でも親でもない、その人の精神一つ、行いが正しくて志

が見事な人なら今すぐにでもお世話してもらいたい」と鮮やかに言ったので、頼三は

そっとほほ笑んでお蝶を顧みた。

 ここに来て遊ぶ時の辰雄は、世に高名な人のようでもなく家のものとの打ち解けた話

をしてただ懐かしく、睦ましく友か親族のよう、頼三は確かな望みができたのである日

お蝶にほのめかすと、袂をくわえて勝手元へ逃げて行ったが、その頃からお蝶はますま

す身を慎んで、徳を修めることを第一と心がけて、木綿の着物は恥じないが言葉遣いや

立ち振る舞い、家内の経済を手始めに世間との交際など細かく見ればまだまだ身につい

ていないと、いろいろ思う中に恋という怪しげなものが胸の中に波打って、飽かれない

よう嫌われないよう、喜ばれたい愛されたい、どうしたら永遠の愛を得て、自分とあの

人が一緒に世を過ごせるのかと、欲は次第に高まって様々な想像が生まれ、会えば嬉し

い話の裏はどうかと枝葉まで疑い、自分を嘆き身を責めて心の半分は辰雄のもの、辰雄

あっての喜怒哀楽、善も悪も白黒も辰雄の心次第、恋の山口は暗くなってゆく。

   いかばかり恋てふ山の深ければ 入りと入りぬる人惑らむ

    恋という山があまりに深いので、入った人は迷ってしまうだろう

 頼三は外野の立場から迷いのない目で見ても、辰雄の愛の度合いはお蝶に負けず、彼

の真情も真情、並ぶ好一対だと嬉しく、二人がのどかに話しているのを聞けは百花の園

に二匹の蝶が舞う心地、春風が吹きわたって自分も陶然と楽しんでいる。右も左も喜び

の中にいるので心も意気揚々として取る筆も勇む。唐草模様に割模様、淵描きに腰描

き、地つぶしの工夫、濃彩淡彩など一世一代の技、下焼きをして次はいつか、あっとい

う間に時は過ぎてすす払いの音、餅つきの声、北風の空の下の松飾り。

                 七

 送る年来る年は珍しくもないが、心が改まれば昇る朝日にも一段と光が加わり、若水

を汲む車井戸のように巡る世の中がおもしろく、お屠蘇の杯はまず年下からとさすのも

おもしろい一家二人の暮らしでも、昔ながらの三つ重ねの盃を捨てずに使っている。

新しいものといえば二間四枚の縁側の障子(紙)、切り貼りのまだらになっていないの

が例年と違うところ。篠原のおかげだろうと元旦早々噂になった。

 片意地な頼三は人から受ける恵みは快くないが、芸に溺れるに負けて生地や金箔、

この四五か月の釜代などの恩が積もった上に、数々の心づけも心苦しく何度も断ってい

るが新年着にと昨年送られた反物も迷惑で、やったり返したりの果てに「では妹にいた

だきましょう、私は男なのでいい着物を着ても嬉しくもない」と一反は返して残りの

一反を、人の情けを無駄にするなとお蝶の晴れ着に仕立てさせて今日のいでたちを見れ

ば、今年十八の出花の色、(番茶どころか)玉露の香りが馥郁として一段と見栄えが

するのでさすがに嬉しく、これを普段着にさせたいものだと思った。

 人は年始回りに忙しい日だが世捨て人にはその苦労もなく、今日一日はと仕事を休ん

で肘枕で横になっていると年始の言葉に目が覚めて、珍しい誰かと聞くと日頃疎い問屋

の何某、扇子に祝辞を込めて長々と昨年のご無沙汰の詫びを言う。これからはよろしく

お願いしますとお蝶が取り次ぐと、「はて、欲にくらんだ眼はどこまで暗いのだろう、

その言葉は私にではなくご本尊はあちらだろう」と指さすのは座敷の花瓶、これの評判

が高くなったので出来上がったら自分が買い取ろう、いや私にと競り合って申し込んで

くるのをいちいちはねつけて、今年はコロンブス博覧会に出品する計画、全ては辰雄の

周旋なので、悠然と構えていられる小気味よさ。頼三はますます大言を吐く。

 その日も暮れて火を灯す頃、辰雄が年始回りの車をそのまま、広い交際の疲れも厭わ

ずに門口へ梶棒を下ろさせれば、春の景色がさらにのどかになって言うこと聞くことが

いちいちおもしろく、頼三が凧揚げをした昔を話せば辰雄は独楽回しのおもしろさが忘

れられないと語る。話があれこれ移って次第次第に密になって、「幾変遷した今の身だ

があの頃の無心が懐かしい、世のことや人のことばかり目に映って誰も彼も助けたく、

不相応な事業に身をゆだねて力及ばぬことが我ながら悔しく、涙を呑むことも多いが

自分のしたことなので訴えるところもない、凝り固まった憂鬱が晴れるところはここで

遊ぶ時だけだ」となぜかいつもらしくない言葉。頼三は聞きとがめて「おかしなことを

言う、君の博愛の徳は上から下まで聞こえ渡って尊敬しない人はいないはずなのに何が

ご不満か」と聞くと「何も言わぬが花だ。お互いに聞いて聞かせて楽しいことならよい

が、自分の胸に抱えきれないものを君たちにまで分けるわけにはいかない。もとより正

は邪に押され、直は曲に勝てないのが世の常、何も聞かないでくれ、頭がますます乱れ

てくる」と振り仰ぐ顔つきが気のせいか血の気がなく青く白く、唇をかんで沈鬱な姿、

お蝶はたまらず兄の袂をそっと引く。頼三は少し前に進んで「よいことばかり聞かせる

友はいくらでもいるが、喜びも悲しみも話せるのが真実ではないか。悪いことを隠され

て喜ぶ人が世の中にどのくらいいるのかわからないが、私たち兄弟にはおもしろくない

ことです。不遜な言葉かもしれないが、兄弟と思っているあなたのために火の中水の中

まで手を取って行きたいのが願い。何とか打ち明けてはくれませんか、聞かなければ気

も落ち着かず私よりこのお蝶がどれほど心細いか、女は気の狭いもの、役にも立たない

のにぐずぐずと気にして私も迷惑、かわいそうでもあるので一緒に苦労を分かち合いた

いものです」と心よりの言葉、お蝶は物も言わずに打ち萎れて組み合わせた手を解いた

り返したり、胸の動悸も高まっている。辰雄は元気づいたように「ばかなことを言い出

してせっかくおもしろかったのに台無しにしました。苦あれば楽あり、楽あればこそ苦

もあるといいます。回り回る面倒をいちいち憂いていてはたった五十年の寿命もたまっ

たものではありません、お蝶様心配なさらないでください、今言ったことは酔った上の

たわごと、泣き上戸の話、何でもないのです。笑顔を見せて私を落ち着かせてくださ

い」とからからと笑って何も残すところはない様子。再び元の話に戻って夜遅く帰って

行ったが、お蝶はますます心が悶えて眠れずにいた。涙の床でつくづく案じて、「あれ

ほど熱心な計画に何かひびが入ったのだろうか、相談する友も少なく敵の多い世の中で

どれほど悔しいだろう、今夜の言葉、顔色、きっとわけがあるに違いない、私を隔てて

隠し立てをするのか、私を嘆かせまいとしているのか、ともかく私はあなたの妻、あな

たを置いて私の夫もない、心を見せるのはこういう時だ、人様のようにうわべは同じに

してもその皮一枚下の骨に刻んで忘れないのは何だろう。知らせ合って喜びも悲しみも

共にしたい」などと案じるままに暁の鐘が聞こえて、新年の初めから穏やかではない、

暇なき恋に身は使われ者(絶え間なく恋うる心に身は使われる)。

 三が日も過ぎて七草の日に、辰雄から誕生日の祝いを兼ねて新年の宴を開きたいので

お蝶様をぜひお借りしたいと手紙が来た。喜ばせるためかどうか、当日の身の回りの

一式、どのような高貴な席にも恥ずかしくないようにと心を込めた贈り物の数々に頼三

は喜んで許した。自分もその人の意に背かぬように装いを凝らしたので美しさ上の美し

さ。「なんと素晴らしい淑女だろう。この姿を亡きご両親に見せたかった」と言われて

お蝶は鏡の前で泣いた。