樋口一葉「たま襷 一」

 そろそろ大団円、というか奇跡の4年の作品に入る。初期の作品は終わりがはっきり

しないか死ぬ、絶世の美女のお涙頂戴物のように思って読み流していたが、訳してみる

と一葉の経験らしき場面や、登場人物の変な行動にも訳があったり、女主人公にちゃん

と考えがあるのがわかっておもしろかった。昔は「わかれ道」と「大つごもり」「十三

夜」以外はあまり好きではなかった。今も「にごりえ」は好きではないが、訳してみた

ら変わってくるだろうか。あ、まだ「うもれ木」もあったか。

 

 おもしろいはずの世の中を空しいと捨てた、今年十九歳、天からもらった美しさが

惜しまれる、埋もれ木となって春を待たぬ身、青柳糸子と名前を聞いただけでも姿が

しのばれる優しい人柄。それもそのはず系図を繰れば徳川の流れを汲む、まだ平和な

江戸時代には御用お側お取次ぎという長い名前をいただいて、席を旗本八万騎の上座に

占めた青柳右京の孫、流転の世に生まれ合わせたので姫と呼ばれることはなかったが、

長襦袢の裾の刺繍に面影が見られる、母の形見か地色は赤だったのが褪せて痛ましい。

 住んでいるのはどこかといえば、昔を思えば忍が丘の名前も悲しい上野の裏手、谷中

の里に形ばかりの枝折門、春に立ち止まって、ごらんなさい枝が出ている垣根越しの

紅梅の色が奥床しいと伸びあがってみても、見えるのは茅葺の軒端だけ。四方を囲うの

は花園、秋はいろいろな虫が鳴く。自然の籠に見立てて月夜に夜の心を聞いてみたい

ものだ。ところでその父はと聞けば毎月十二日に供える湯呑みの主、母も同じく仏壇に

いるとのこと。

 孤独の身は霜よけのない花壇の菊のよう、添え竹のような後見人といっていい者は

大名の家老職を背負って立った用人何之進とかの形見の息子、松野雪三という歳は三十

五六、親譲りの忠魂を磨いて二代の奉仕は隙がない。一町あまりある我が家から雪でも

雨でも朝夕二度のご機嫌伺いを怠らない心は殊勝だ。妻を持てと勧める人もいるが、

「私のことはよいのです、それよりもお嬢様の身の上が気遣わしい、二十歳というのは

今の内だけで盛りを過ぎれば花も甲斐がない。適当なお婿様をお迎えしたいものです」

とひたすらに主人を思う以外は何もない。ご主人大事の心に比べて世間の人の軽薄な

こと、「才あるものは多い、能あるものも少なくない、容姿や学が優れていたからと

いって大事な人をお任せするに足る人がこの世にいるのかいないのかわからない。幸せ

な一生を送らせるにはどうしたらよいのか」と案じ果てて夜を明かすこともある。嫁入

り前の娘を持つ母親の心もそこまでではないほどの、傷をつけないようにとの心配は

なみなみならない。雪三がここまで熱心に婿選びをしていても、糸子は目の前を過ぎる

雲とも思わず、楽しみは春秋の庭の花、できるのなら蝶になって遊びたいと取り留めの

ないことを言って暮らしている。

 そうしているうちに今年の春も空しく暮れて、白妙の色に咲く垣根の卯の花、ここも

一つの玉川(高槻市卯の花と月の名所)だと、鑓水が細く流れて風がなくても涼しい

夏の夜、糸子は湯上りの散歩をしている。打ち水の跡を軽やかに庭下駄で踏んで、裾を

取るもう片手に透かし骨の団扇で蚊を払いながら流れに向って立つ姿に空の月が恥じら

ったか、雲がかかって急に暗くなった時に、誰かの思いのような蛍が一つ、風に漂って

目の前に来た。糸子は無理だとは思いながらつと団扇を高く上げたが、蛍は空遠く飛ん

で行き、手元が緩んで団扇は卯の花の垣根を越えて落ちてしまった。どうしようと困っ

て垣根の隙間をさしのぞくと、ちょうど雲が切れて新たに照らし出す月の光の中で目が

合った人がいる。いつの間にここへきて今まで隠れていたのだろうか、知らなかったと

はいえ取り乱した姿を見られただろうか、見られたに違いない、と顔が熱くなって夢か

現実かわからないままにうつむくと、細く優しい男の声が、「これはあなた様のでしょ

う、お返ししますので受け取ってください」と垣根越しに差し出す団扇を取ろうと見上

げると、美しい少年がいる。引こうとする団扇をちょっと押さえて「思いに燃えるは蛍

ばかりだと思いますか」と謎の一言。しばらくの間糸子は何が何だか分からなくなって

しまったが、我に返ると卯の花の垣根に照る月は高く澄んで、流れに映る影は自分一人

になっていた。それにしてもあの人は誰だろう、隣は植木屋だと聞いていたが思いの

ほかの人柄だと、そちらを眺めて佇んでいると歌を詠じる声が風に乗ってきて、さらに

奥床しさを添えた。糸子は世をはかないものと思い捨てて娘盛りの身でも紅白粉をつけ

ず、華美な装いなどいらぬと顧みもせずにいたことが恥ずかしくなって、「私は迷った

のかしら、お姿をもう一度見たい」と伸びあがると、「もし」と袂をとらえられた。

「誰、ああ松野ですか、なぜここに、いえ、いつのまに」言うことは支離滅裂。

 

 丸窓に映る松の影を幾夜も眺めている間に月の出ない夜となり、糸子の心もその通り

となったが打ち明けて聞くこともできない。隣の人の素性を聞きたいと思っても、意地

悪く誰も話さないのか本当に知らないのか。「まさか植木屋の息子ではないだろう、と

いって住み変わったとも聞かないので他の人でもないようだ、わからない」と思う心の

底はその人に惹かれているのだ。用もないのに庭を歩き垣根近くへ行って、何度も思い

返しているが「なんてはしたないことを、名前も素性も知らず、気性も知らない人に

恋するとは我ながら浅ましいことだ、無常の世の中で不確かな人を頼りにするとは、女

とは悲しいものだ」と思いを断とうとして「松野が忠節心から私を大事に思うあまりに

様々な心労苦労をしているのに、それをわかっていながらどこ吹く風と耳にも留めずに

いた私がなぜ、跡形もない出会いに片思いをしているのか。心に聞かなくても恥ずかし

い。人知れない悩みから昨日一昨日は雪三が来るのも煩わしくて言葉も交わさなかった

ので、どう思ってどれだけ心配していることか、気の毒なことをした。さて今日も日が

暮れようとしている、いつもの足音が聞こえるだろう、近頃曇った胸の鏡を爽やかな話

で晴らしましょう」と垣根のそばから離れて、見返りもせずに二三歩進むと鑓水の流れ

る音が涼しい。心を落ち着けて昨日の自分を思い浮かべてみれば、なぜもの思いをする

のかと この広い庭は私のために四季折々彩りを競っている。雅な居間は私の立ち居を

自由にさせてくれる。風になる軒端の風鈴、露の滴る釣り忍草、どれも風情のないもの

はないのに何を苦しむ必要があるのか、無駄に胸を痛めるのはよそう、愚かなことだと

一人ほほ笑んで縁側に腰を掛けた。

 

 晩の風が涼しく袂に通い、空に飛び交う蝙蝠の影が二つ三つ、それもだんだん見え

なくなってゆく。折戸を静かに開けて訪れたのは聞きなれた声、糸子は勝手に声をかけ

て「お玉、雪三が来たようだから燈火を、早く」と言いつけながら立って門の方を見な

がら、暗がりにも白く浮かぶ手を上げて幼子が母親を呼ぶように差し招きながら座敷に

入らずに待っていると、松野が足を速めて縁側のそばに来て一礼する。糸子はそれを

軽く受けてにこやかに花筵の半分を開け、団扇を取って風を送ると、「恐れ多いことで

す」と慇懃に手をつく。「この頃はご不快と聞きましたがもう平常に戻られましたか、

お年頃なので気鬱の病気が出るものと聞きます。いつもの読書が特によくない、大事な

お体をなおざりにしてはいけません」と、何も知らないとはいえ真実を含む言葉が恥ず

かしく、顔を赤らめて「いいえ、いいえ、もう治ったのです、ご心配をおかけして気の

毒でした」を思わずお詫びの言葉が出た。「何をおっしゃるのです、主従の間で気の毒

などとご懸念はいりません。あなた様のお体にご病気やそれ以外の何かが起こっても

それは私の罪になるのです。ご両親様のご位牌、また私の両親に対しても申し訳なく、

たとえこの命に代えても尽くすつもりなのですから、そのようなご遠慮はなさらないで

ください」と恨み顔をする。これほどまでに思い詰めている、その心を知らなくもない

がこの頃は心が悶えるままに、言葉を交わすのが物憂く不愛想をして、病気などとあり

もしない嘘ををなぜ言ったのかと空恐ろしく身も震えて「お腹立ちになったのなら許し

てください、隔てるつもりは全くないのですが、主人の家来のと昔はともかく、世話に

こそなっても恩も何もない私が常日頃いろいろな苦労をかける上にこの間からの病気、

それほどのこともなかったのになぜか気がふさいで心にもないことをしてしまったかも

しれません。それが気の毒でつい言いましたがお気に障ったのなら二度と言いません。

あなたに捨てられたら私はどうやって生きていきましょう、まだ未熟なので目に余る

こともあるでしょう、腹の立つこともあるでしょうがほかに寄る辺のない私を妹とも

娘とも思って諦めて、教えてください」と松野の膝を揺さぶって涙ぐむと、雪三は後ろ

に下がって「分に余るお言葉にお答えすることができません。お心細いあなた様だから

こそ私風情にご丁寧なことを、あなた様はご存じないでしょうが昔のご身分を思い出し

ておいたわしい。私に後見となるほどの器量はありませんが、真心だけは誰にも劣りま

せん、ご安心してください。世にも優れたお婿様を迎えて華々しいお姿にそのうちなる

ことでしょう、おこがましいくも雪三の生涯の望みはあなた様ただ一人のお幸せ」と

言いかけて言葉を切り、糸子の顔をじっと眺めた。糸子は何心なく見返して、「私は

華々しくなりたいという願いもなく、ましてお婿様を迎えるのお嫁に行くのという世の

人のような願いは少しもないのです。ただあなたにさえ見捨てられなければ、あなたに

さえ嫌われなければそれが一生の幸せです」とにっこりすれば、松野は膝を進めて、

「お嬢様はそれほどまでに雪三を力だと思っておりますか、それとも一時のお戯れで

しょうか、ご本心をお聞かせください」と問い詰めたので糸子はほほと笑って、「戯れ

かと聞くだけでも浅はかですよ、親とも兄とも大切に思っているのに」と無心に言うと

「かたじけない」と語尾を震わせた。