よもぎふにっ記

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    ピントは合わない、風は吹く、花の向きもおかしいから見苦しいけれど、

   咲き始めのゆうすげとわたすげ、道造好きには憧れの花を始めて見た。

 

8日

 空は雲ってとても寒い。こたつを昨日からやめたのでひとしお寒い。

9日

 起きると空は晴れていたが、垣根の下や草の葉の上に白く雪が載っていた。「だから

夜寒かったのだ」などと話す。朝の間しばらく邦子と小説の話をする。風は少しあった

が今日は暖かだ。「さあがんばってこれから10日くらいでこの小説を書き上げよう」

と思う。金港堂からの注文で「歌を詠む人の優美な作品を」と言われているのが苦し

い。その社会に立ち混じってあさましく厭わしい話を見聞きしている私には、歌を詠む

人といえば品のない心の曲がった人だと思ってしまい、真の風雅を書こうとしたら、人

知れないあばら家で世から離れている人を探してくるべきだろう。玉すだれの大奥に

ひっそりと暮らして歌を詠むお姫様もいないとはいえないが、私の目に入ったことが

ない。習慣というものがなかなか失われないものであってみれば、教えというものを

ないがしろにしてはいけないのは道理である。心を洗って目を拭い、真実の天地を見出

すことが筆を取るものの本意である。小さな井戸の中に潜んで、これよりほかに世界は

ないと悟り顔をしているのは、人から見たらどんなにおかしいことだろう。私もその類

には違いないので我ながらおかしいが、目が開かないのはやはり生まれながらの習慣が

倣いになってしまっているからだろう。変えることは難しい。

   敷島のうたのあらす田あれぬけど にごらぬかたもあるべきものを

    日本の和歌の田は荒らされてしまったが、濁っていないところもあるだろう   

これは歌ではない。

 この日午後に兄の代理に塙忠道さんが来てしばらく話していった。

10日 

 晴れ。なんとか腹案だけはできたので今日から書いてみようと思う。午前中はする

ことがあったので時間が過ぎた。

11日

 小石川稽古に行く。新しく2、3人入門した。渡瀬よね子、坪内何某、白根何某さん

と聞いた。この人たちに習字を教えた。三宅龍子さんが来て「『文学界』初号を送らな

ければいけなかったのに怠っていました。26日の発会の日まで許してくださいね」など

と言う。「どんな方がいるのですか」と聞くと「初号は透谷あたりの特別にはおもしろ

くない顔ぶれね。二号の予告では大和田建樹、井上通泰など諸大家に私とあなたの名前

が載っていました。あなたの『雪の日』はいつもより出来がよくないように思うけれ

ど、世評はどうかしら」と言った。「私もそう思っていました。でもそれは私の脳の

仕業なので私の罪ではないですよ」と笑った。龍子さんは「今日は御徒町の会堂で巌本

善治先生のお父様の会葬をする日なのです」と言う。空色の浜ちりめんの裾模様に、

同じ色のあられ小紋の下着を2枚着て、帯は海老茶の繻珍、羽織はあずき色のななこ織

である。柿鼠色(暗褐色)の地に二輪ほど水色の八重桜を刺繍してある、多少金糸の

入った襦袢の襟が見えないほど甲斐絹の襟巻を深く巻いているのは、喉の調子が悪いと

のことだ。髪に何の飾りもなくイギリス結びとかいうものにまとめて、ぱっと見には

16、7歳に見える。元々人とは違う人ではあったが、三宅さんに嫁いでさらに異様な風

をまねしているのか、どう見てもまともな人には見えない。着物もただ引き上げに引き

上げて着けているので腰のあたりがだぶついて、大きな袋を巻き付けたようになってい

る。みの子さんが熱心に「見苦しいから着替えなさいよ」と何度も言い、私と伊東さん

も横から勧めたので微笑みながら「ではお母様の仰せに従いましょう」と、みの子さん

に着付けてもらう。私と伊東さんが左右について「ここはこうした方がいい」などと

言っていると、「ああやかましい、ごたごた言わないで、お筆を取ればひな子(樋口

夏子をひなつ、伊東夏子といなつと呼んで区別した)さんはお上手だけれど、あなたの

格好は私と姉妹みたいなものよ、あなたはそんなこと言いながら私の姿を心の鏡に映し

て『5回目に出す醜婦はあんな風に書こう、腰のあたりに浮袋をつけたような』などと

構想しているのでしょう」と笑うので、私たちも我慢できずに大笑いした。「遅れる、

遅れる、ではさようなら」と走り出して2、3回頭を下げたのが一同へのあいさつで、

後は大風が去ったように急に淋しくなった。中村礼子さんが「16日にかるた取りをする

ので来てくださいね」と言うので「どうでしょう、難しいかもしれません」と答えると

「あなたは私の家を嫌っているのね」と拗ねるので、数詠みの仲間4、5人全員で行くと

約束したのだった。みな帰ったのは4時だった。

 江崎牧子さんが昨日女の子を出産したと知らせがあった。この夜は邦子と九段に散歩

した。真っ暗で風も強く、三崎町辺りの家々は戸を閉ざしていてとても寂しかった。

「半井先生のところには、龍田君だけが見えますよ」と邦子が言う。

   みるめなきうらみはおきてよる波の ただここよりぞたちかえらまし

    お目にかかることのできないお恨みは波のように寄せ返すけれど

     ここから引き返すよりほかはありません    

 ばかな私だ、人に言えるものではない。九段についた頃、遠い南の空がほの赤く闇に

浮び、だんだん濃くなっていくのは火事だった。小川町に来た頃には人々が「この風で

はきっと大火になる」と騒ぎ立てている。交番に行って電報の掲示を見ると本芝4丁目

辺りから火が出ているという。不思議なのは去年の天長節に邦子と九段に行った時も

帰り道にこの辺りで錦町の火事に遭ったのだった。「お母さんがさぞ心配しているでし

ょう、急ごう」と駆け出した。小川町から万代橋を通って、明神坂で母に土産の飴を

買う。これは母の好物の一つで、ここのものがどこのものよりも好きなのだ。帰り道は

いよいよ風が吹き荒れて前を向けるものではなく、露店のほとんどは明かりを吹き消さ

れて、文句を言いながら帰り支度を急いでいるようだった。残った店も買い手もいない

ので、打ちしおれて泣き出しそうにしている。家に帰るまで相当燃えているように見え

たが、間もなく鎮火したようだ。

2月13日

 昨夜から寒気がかなり厳しい。寒暖計は華氏5度(-15℃)になっている。初めて

経験する寒さだ。手洗いに熱湯を注いでも氷が溶けず、他も同じような状態だ。洗って

おいた米もカチカチになって桶から出すこともできない。これにもお湯をかけて何とか

溶かした。10時になって寒暖計は20度(-7℃)まで昇った。

 14日 母は用事があって小林さんの所へ行った。この日も朝の間7度(-14℃)

    だった。

 15日は少し緩んだ。起きて出て見ても霜も少なく、今日は11度(-12℃)だとみな

で喜ぶ。新聞にも、ヨーロッパも稀な寒気で、全市が氷に閉ざされたところもあったと

のこと。

17日

 早朝地震があり、それから天気は曇った。午後1時頃湯島4丁目辺りから失火があった

がすぐに消えた。西村さんが来て6時頃帰った。雨が降り出した。9時過ぎ頃近所で火が

出たようだったが、雨が強かったので出て見てもどの辺りだかわからなかった。

18日 雨は止んで風が出た。姉が来た。母は血の道で体調が悪かった。

19日 小石川の稽古を休む。

20日

 安達盛貞さんの病気がいよいよ悪いと聞いて邦子と一緒にお見舞いに行く。本当に

今度こそは限りかと思われた。人柄があまり面白くないので普段はそう親しくしていな

いのだが、見ていると涙ぐまれて「可哀想に、もう少し生かせてください」と思ってし

まう。こういう場を見ると老いた親を持つ身はとても悲しいものだ。孝行しようと思っ

ている親が早くに亡くなってしまったら、天を恨んでも甲斐のないことになる。様々に

思って胸が痛い。この日は望月さんが来て、日曜なので芦沢さんも来た。

 

22日

 晴天。日没近くに「都の花」が届いた。100号で一旦止めると聞いていたが、やり方

を変えて101号を出したようだ。表紙は薄紫の紙に桃桜の模様でなかなかよい。私の

「暁月夜」も載っており、富岡永洗の挿絵が華々しい。藤本藤樹先生が私のことを大げ

さに紹介しているので大変恥ずかしかった。(「売り出し」として「一葉とは謙譲の

呼び名で、樋の口から滴る美しい水が夏にも涸れないような稀なる女史です。浮いた恋

などにはなびかない物語であります」)

 

23日 

 晴天。中島先生の発会についての問い合わせのため、榊原家から使いが来た。つね姫

様の侍女でいつも小石川にもお供して来る人であるが、母が初対面の挨拶に出て行くと

「あら」と驚いて「あなたでしたか、あなたでしたか、存じませんで」と言う。母は

老眼がひどいので「どなた様でしょうか、忘れてしまったようで」と言うと「その昔

安達家の千代子様に侍女としてお仕えしていたものです」と言った。私もよく見知って

いる長という大工の妹である。縁はくもの糸のように巡るものである。悪いことはでき

ないものだ。これで話の糸口は解けて話はいろいろ多かった。この人が帰り、昼過ぎに

姉が来て「季節病なのか、体調が悪い」と言う。お茶やお菓子をご馳走した。日没後、

戸を閉ざしてみなで火鉢の周りに集まって話をしていると、門をたたいて訪う者が

ある。日が暮れてから来るような人もいないので、聞き違いかと耳をすますとやはり

我が家のようだ。「どなたですか」と家の中から声をかけると「半井です。夜に来て

ご無礼ですが」と言う。先生かと思うと胸はただ大波が打ち、全く思いがけないこと

なので、夢のような気がした。出て行って門を開け、いつものように物静かに入って

くる姿を見ても、嬉しいという思いなどは後で落ち着いてから出ることで、その時は

霧の中をさまよっているようだった。明けても暮れても、嬉しい時も悲しい時も、

露ほどにも忘れたことはなく、寝ても覚めても私の心から離れない人。最近でも空しく

待つ思いで、もう訪い訪われる仲でもないのに「人づてでも便りを聞きたい、せめて

お手紙ででもくだされば」と人には言えないことを思い、家の角に立ち尽くし、違う

郵便に心をときめかせて恥ずかしい思いをしたことが何度あったことか。言いたいこと

も思い出せず、聞きたいことも忘れて顔がほてるばかりだった。先生は静かに口を開い

て「絶えて久しくしていた罪を許してください。年賀状をいただいたのにお返しもしな

かったのは、年末に風邪を引いて年明けからしばらく湯治に行っていたのです。気に

かかってはいたのですが」とお詫びされた。「去年いただいた歌のお礼がてら、『胡沙

吹く風』の出来上がったものをお見せしたかったのですが、出版者は欲張りだから売る

方に先に回してしまって、作家の方にはなかなか送って来ないのです。やっと届いたの

で」と『胡沙吹く風』上下2巻を下さった。表紙も美しく、挿絵も見事で立派なものだ

った。前編の題字は朝鮮の忠士朴永孝、詩は花州逸人という人で先生の知り合いだろ

う。私の歌は晴れがましくも口絵の前にあって林正元の肖像と並んでいる。素面主人が

前書き、先生が後書きをして巻末には愛読者から送られた詩や文章が多く載っている。

無名の人の寄せた詩の中に

  嘗て海外に奇しき勲を挙げんとし 鉄釼、芒鞋に意気振ふ

  素心落莫に帰れるや識らざれども 一遍の偉作前身を表はし とある。

何となく昔を思い出し燈火の影からそっと顔を見上げると、悠然として微笑むお顔は、

まさに林正元が現れ出たようだった。私の「暁月夜」を読んでいてくださったようで、

詳細に感想を言ってくださった。なにかと目に留めてくださっていることが本当に嬉し

かった。話すこともたくさんはなく「では」と立つのを止めることができずに送り出し

た時の悲しかったこと。しかし嬉しいともつらいとも言いようがなく、夢と現実の区別

もつかず、言いたかったことすら何もかもわからずにいた。

 『胡沙吹く風』は朝鮮が舞台で150回の長編だ。桃水先生はもともと文章が粗雑で、

華麗さや幽玄さに欠けている。本人もそこに重きを置かず、ひたすら趣向や意匠を尊ん

でいるようだ。しかし林正元の知性や勇気、香蘭の貞心、青陽の苦難などは全く損なわ

れることなく読んだままに、喜びの場面では一緒に喜び、悲しみの場面では涙が止まら

なくなる。といってもそれは小説の登場人物の仕業ではなく、私の心の奥深くに操られ

ているのだろう。田中みの子さんは学も深くなく知識もそう高くはない人だが『胡沙吹

く風』について非難することが多かった。そこまでではないけれども、ともかく完璧な

作品ではない。それでもよいのだ、この小説は浮世では読み捨てられるもので人のため

には半文にもならないものだがそれでもよい。私の為には生涯の友としてこれ以外に

何があろう。孤独な燈火の光細く、暗い雨が窓を叩く夜、誰も知らない思いを語りつく

し、誰はばかることなく嘆いたり喜んだりできる人は、このかりそめの世の中では得る

ことができないのだ。この夜は本を前に明かし、暁の鐘を一人で聞いた。

  引とめんそでならなくにあかつきの 別れかなしくものをこそおもへ

   引き止めることができない別れが悲しく、思いは尽きない

昼間は本とはしばらくお別れ。