よもぎふにっ記

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21日

 午後『文学界』の平田という人が訪ねてきた。邦子が取次ぎに出たので、年取った人

かと聞くと「いえ、まだ若い人です」と言う。気が進まないが会う。高等中学の2年生

で平田喜一という日本橋伊勢町の絵の具商の息子で21歳であるとのこと。何の用で来た

かとも聞けないのでしばらく話をしてみると、おしゃべりでもなく、しっとりして思慮

深げな、それでいて人柄には愛嬌があって懐かしい感じのする人だ。私の小説「雪の

日」が『文学界』の2号に掲載されるはずだったが寄稿が多く、3号に回したのでご了承

くださいと言うので、彼は編集者なのだとわかった。「花の頃(4号)までに新作を

いただけたら」と言うので「もしできましたなら」と答える。「花圃さんは2号に何か

出したのですか」と聞くと「はい『筆のすさび』という和歌について述べたものです。

あなたの元にはまだ行きませんか」というので「ええ、1号を拝見しただけです」と

答えると「ではすぐに送らせましょう、花圃さんはこの頃『女学雑誌』によく書いて

いますね。多くは翻訳ものですが、書き方が昔とは随分変わったように思います」など

と言う。だんだん話が弾んできて、最近の文士のこと、文学の有り様などを語り出し

た。幸田露伴をとても尊敬しており「対どくろ」「風流仏」などが心に沁みるなどと

言ってほとんど涙を流しそうにした。幽玄の微妙な境地を目標としているようだ。

西行、兼好、芭蕉などの心根は同じだという話になり、「徒然草」の一節や「山家集

のあれこれの歌が出て来ると、私も同感するところがあるので口数が多くなり、初めて

会った人のようには思えない。「あなたも露伴が好きでしょう、あなたの『埋れ木』を

読んでそうではないかと思いましたよ」と言うので私も笑って「男性から見たら私の

ようなものが書いたものなど、ばかばかしく思って読まれたことでしょう、露伴先生の

本意までわかるわけでもなく、自分の感じたままに、心に引き付けてよいと思っている

だけですからどうでしょうか。露伴先生は今の作家の中で一番素晴らしいと思っていま

す。お会いしたことはありますか」と聞くと「いえまだないのです。弟の成友というの

が僕の学校にいて、よく知っていますが」と答える。「高等中学といったら大学に入る

ような方ばかりで、立派な方が多いのでしょうね、お友達にはどのような人がいるので

すか、おもしろい話も多そうでうらやましいです」と言うと、「いえ、友というような

人は一人もいません。学業というものは教わったことを覚えるものですから勉強のでき

るものはたくさんいますが、大体は同じ鋳型から作られたようなもので、気概という

ものを持っているような人はそういるものではありません。僕は早くに父を失くして

この世の苦労を身に着けていますから、思慮も心配事もないお坊ちゃんたちとは仲良く

なれないのです」と言う。「あなたもお父様を亡くされているのですか、私も父を亡く

し、兄を失くしてこの世で戸惑う身です。今何年生ですか」と聞くと「3年のはずです

が、1年を数学で落としてしまい2年というところです。教師もおもしろくなく、友達も

楽しくなく、この世のはかなさに飽き果てて毎夜「徒然草」を友としているのでなおさ

ら学校が嫌になり、勉強も遅れてしまうのです。先日までは学校の寄宿舎にいたのです

が、家に呼び戻されて雑事に追われるようになってからさらに苦しみが増えて、耐えが

たいのです。あなたもお父様がいないとのこと、同じくこの浮き世で苦しんでいること

とご同感します」と言われて二人で涙ぐむ。『文学界』1号に巌本氏だと思われる禿木

という名で「兼好」の一文があり、私も邦子も大変胸を打たれて、内容にも文章にも

とても感じ入ったものだったが、今またこの人がこのような話をして、まだ若い人なの

に悲哀の情を深く知っていることが哀れで、悲しくなり「その浮き世を逃れるという

ことはまた元の世界に帰るということ、邪正は一如、善悪は不二というように真理の元

では全てが同じなのです。悟ってしまえば極楽への十万憶の道も遠くはないのです。

墨染の着物を着て頭を丸めさえしたら解脱できるというなら、誰も悩みはしません。

苦悩は悟りへの道しるべであり、煩悩はすなわち菩提なのです。あなたのおっしゃる

兼好法師も凡夫だったことがあるのです。今高等学校を止めても悟道が終わるわけでは

ないでしょう、もっと戦わないといけません」と生意気ながら励ますと「星野先生も

そのようにおっしゃって僕が退学しようとするのを止めます。兼好法師だって42歳まで

はいさぎよく浮き世を離れることができなかったようですし」と打ちしおれている様子

は、涙を胸の内に湛えた心の悶えが伝わってくるようだ。話は今の女流について移り

「2、3人ほど女流文学者と呼ばれる人もいるが、大体は西洋の物まねなので残念です。

わが『文学界』は女流文学者に日本独自の発想を持って活躍してほしいと思っているの

に、そのような人はいないのです。最初から文学者になろうと志しても実際になれる人

は少ないものです。思いが耐えがたくなり、あふれ出して文章になった物こそが世を、

人を動かすものではないでしょうか。明治女学校では文学を指導し始めていると聞きま

すが、物を書く人が出るようにはまだ時間がかかることでしょう」と、天知氏のこと、

透谷氏のこと、巌本氏のことを話す。宇宙を宿とする島村藤村、戸川秋骨、磯貝雲峰の

こと、韻文の成り行きや和歌のこと、この世の歌人の人柄についてまでいろいろな話が

あった。1年ほど松の門三艸子の歌塾に通って驚いたことなど話は尽きない。「『都の

花』にはなにか書きましたか」と聞かれ、101号につまらないものを載せたと答えた。

「僕の家にも来てください、星野さんの所にもぜひ」と言う。男性とは交際しないと

決めているが、そうも言えないので「学が浅くて物を知らないのに人と会うのは、自分

の愚かさを見せるばかりで意味がないですよ」と笑っていると、「そんなことはない、

ぜひ来てください、僕もこれからは時々訪ねますのでお許しください」と、やっと日も

暮れようとする頃に立ち上がった。途中菊池の奥さんが来て騒がしかったので、語り

尽くせないことも多くあった。背が高く、中学校の制服を着けてあまり美しいとは言え

ない格好で、本人が言うようにお坊ちゃんたちの友にはなれまい。これではこの世が

どれだけ淋しいことかと思う。「また会いましょう」と別れた。

22日

 早朝に手紙が来た。帰りに「都の花」を買い燈火の下で読んだとのこと。主人公の心

を哀れだと思ったこと、また結末の文章をたいそう褒めていた。文学の道を志すこと

深く、世間の風にもまれて苦しんでいることを幾度も嘆いて「露伴のお妙様のような人

に出会ったら嬲り殺されそうな私ですが、世を拗ねて2、3歳年上の姉のような人を恋し

く思っていた頃、昨年の秋に「埋もれ木」のあなたを知り、このたび「文学界」の縁で

お会いすることができたのは、何かの引き合わせがあったのでしょうか」と懐かしんで

くれている。「お互い親のない身、同じ立場を哀れと思って、一緒にこの道に尽くして

いくことをお許しください」などこまごまと書いてあった。名前を見ると「禿木」と

ある。「あの『吉田兼好』を書いた人だったのか、気づかなかったとは愚かな」と邦子

にも見せた。年若く子供のようにも見える人がどうしたらこれほど悲哀の心を持ち得た

のだろう。歌人がそこにいながらにして名所を知るように、踏み込まずして情の奥深く

までたどり着いたのだろうか。そうはいってもこういう人こそ危ないものだ。風流に

注いだ涙の余りを玉露に変えて文章にし、それをしるべとして悟りの道に入るならば

よいのだが、涙に迷って涙だけの人になっては目も当てられない。これは他人事では

なく自分にも起こるかもしれないことだ。見えない敵は無常だけではない、形あるもの

全てに気をつけなければならない。【(世はさだめなきこそいみじけれ(徒然草)=人生

は限りがあるから素晴らしい=この世は無常であるから貴重なのだ)←の諧謔?「いみ

じ」は素晴らしい、とても、ひどい、などに類する色々な意味があって難しい。】

『文学界』2号も手元にあったのでと一緒に送ってくれた。信じられる人だ。

24日

 小石川の先生に手紙を出す。明日の会に不参加の断りのため。麹町の裁判所から広瀬

七重郎への呼び出し状が来たのですぐに郵便で山梨に送る。期日は4月20日である。

25日

 晴天。拭ったような空である。私の誕生日なので赤飯を炊いて姉を呼んだ。芦沢さん

が来た。何事もなし。

26日

 晴れ。早朝札幌の関場さんから邦子に手紙が来た。「台門指月鈔」を読む。夕方本郷

の通りを散歩した。12時就寝。

27日

 晴天。一日著作に従事。

28日

 晴れ。西村のお常さんが来たので、送りがてら小石川の伝通院大黒天に参詣した。

今日は甲子の日だからである。この夜神田佐久間町で失火。風が激しかったのでだいぶ

焼けたようだ。

29日

 起きてみると春雨が降っていて、軒先の梅の香りがとても高かった。母は火事見舞い

に行った。藤堂邸より失火し、二長町の方に延焼、市村座も焼失したとのこと。今日の

「読売新聞」に川越大火義援金の欄に「日本橋伊勢町絵の具問屋平田喜十郎」とあるの

はあの禿木さんのことだ。義援金はこの頃の流行りとはいえ慈悲あることだと嬉しくな

る。この日の午後伊東夏子さんが来た。「英和学校でピアノに合わせて歌う外国の歌

(讃美歌)を訳そうとしているのだが、七五調ばかり習った身なので八六の語調にする

のがとても難しく、意味もよくわからないので知恵を貸してほしい」とのこと。一緒に

しばらく考えて「こうしましょうか、ちょっとおかしいけれど」と、

  楽しき国あり 老せぬ民  永久(とこしえ)の春に 枯れせぬ花

  日は常に照りて 憂き闇もなし  と見れば隔つる 死出の流れ

  常葉の野辺は 川のあなた  ヨルダンもカナをぞ 隔てたりし

  モッセのごと立ちて 御国を見ば  勇みて越ゆべし さかまく波

「翻訳の難しさはこちらとあちらの習慣の違いからなのね。原文をもっとかみ砕いて、

さらに日本語として自然に出て来るようなものにしないと。この短時間では考えが足ら

ず、うまくできなかったのでまたいらして。一緒に研究しましょう」と話した。雑談も

色々して夕飯を出し、日没少し前に帰った。この夜12時過ぎまで小説の構想を練った。

30日

 晴天。邦子と話す。我が家の貧困は日に日にひどくなり、金ももうどこからも借りる

ことができない。母はただただ私を責めて、小説が進まないことを「どんなにがんばっ

たって買う人がなければどうしようもないが、あちこちから求められているのに、何か

と引き延ばしては出さないのはおかしいではないか。誰だって初めから名文を書ける

わけではないのだから多少気に入らないところがあったって我慢をしなさい。例え10年

先に名を上げたって、それまで生活ができなかったらどうしようもないではないか。

こんな侘しい目に遭うのだったら10円取りの小役人でも、たすきをかけっぱなしの商人

でもいいから、拠り所が決まればできたらこんなつらいことはないのに」などとばかり

言っている。親不孝したくないと日夜思ってはいるが、その思いが通じずにこのように

煩わしげに言われる毎日。私の不届きのせいだ。

 帝国大学総長に加藤弘之氏が免じられ、浜尾新氏が任官。

  

  春雨は軒の玉水くりかへし ふりにしかたを又しのべとや

   軒端を繰り返し落ちる春雨のしずく、降る元(昔)を何度でも思えというのか

  あなくるしつらくもあらぬ人ゆえに あはまほしさのかずそはりつつ

   辛くない(よくしてくれた)人だったから、会いたさが重なって苦しい

  中々に恋とはいはじ かりごも(刈菰)のみだれ心はわれからにして

   これを恋とはいわない ただの心の乱れだから

  荻の葉のそよともいはですぐるかな わすれやしけんほどのへぬれば

   (風に鳴るはずの)荻の葉がそよともいわない 

    忘れるほど時が過ぎれば (悲しみで)心が動かなくなるだろうか

    心が動かないのは 忘れるほど時間が経ったからだろうか