樋口一葉 残簡 その一

 

                   冬空に白鳥がやってきたが、撮り損ねた。

 通俗書簡文に少し飽きたので残簡を読んでいる。一葉が勧工場で働きたいと思ったの

に母に止められたことがあって、そこから思いついた話のようだ。話し言葉を見ると

こんな口調だったのかと思う。そして本当はお母さんにこう言いたかったのだろうな

と…。上の上に行きたいというのも一葉らしい。

                   一

 長い間いたわった甲斐もなく、昨年の八月の終わりに父が亡くなり今はたった一人と

なった母君に慣れない台所仕事をさせたくないと思っても甲斐のない貧しい生活。妹も

同じ長屋のお妻という髪結いの下働きにやとわれて毎日出歩いている。お嬢様と言われ

るはずの身に洗いざらしの針目が見える(継ぎのある)着物を着け、胸の隠れる前掛け

をして、紅白粉という歳に尽きぬ思いの結び髪で、毎朝毎夕手に取る櫛で梳ることも

なく十六の春をいたずらに過ごさせるのかと、さまざまなことが思い浮かんで深く悩ん

でいるので夕暮れの鐘の音も聞こえないようだ。

「おや今日は兄さんの方がお先でしたねぇ。」とだしぬけに声をかけられて振り返り、

「おお、お八重さんか。いつ帰ったぇ、ちっとも知らなかったよ。」

「いいえ、今帰ったばかりなの。おっかさんただいま、あのこれはねぇ表町の松本さん

てぇお家でいただいたのよ、まぁ召し上がってご覧じゃいよ。あの、なんだって、これ

は虎屋ってぇので宮内省の御用お菓子ですとさぁ。」

「おおそうかぇ。それはまあまあ、ちょっと兄さんご覧よ、何と見事ではないかぇ。

お八重や、松本さんとおっしゃるのは。」

「はぁ松本さんはそら、あのいつかねぇ、お嬢様のお古いお召をいただきましたろ、

あのお家よ」

「ああそう、そういやそうだったねぇ、まぁ本当にいつもいつもありがたいこと。次

上がったらよくお礼をお申しよ」

「はい。あの兄さん今日は少しよい話を聞いてきましたの。おっかさんとあなたがよい

とさいおっしゃれば私はすぐにでもするつもりですけれどね。」と言えば、こちらは

膝を差し向け、

「よい話とは結構な、全体どういう話だぇ」

「まあこうなんですよ、今日その松本さんてぇお家へ参るとね、ちょうどお出入りの人

らしい町人風の人が来まして、今度上野へ何とか言いましたっけ、何でも博覧会みたよ

うな、勧工場のようなものが出来てましてそのまぁ売り子ですねぇ、十五位から二十五

六までの女を欲しいというの。そして給料は一番下等で一日七銭ですとさ。それから

二十銭まであるというの。それにそんなに忙しいこともないんですから合間には針仕事

こそいけないそうですけれど、そのほかは編み物でも本を持ってきて読んでもいいんで

すと、そういう話をその人がしましたら奥さんが私に、お前もしやってみる気があるな

ら頼んであげるよとおっしゃってくださいましたので、私は一応母や兄に聞きまして

からと言ってしっかり返事はしませんでしたけれど、やってみたいと私は思いますわ。

それにその人も、わしが世話をすればかなりよい給料にしてやるって言うのですがどう

でしょうね」と問いかければ千代二はしばらく考えて、

「ちょっと聞くといいようだけれど、なかなか言うようなわけにはいかないからねぇ。

最下等が七銭といったら七銭を目安にしなくちゃ、当事というものは多く外れやすいか

ら。それよりも第一はそんな多人数に顔をさらすのもあんまりお前が気の毒でねぇ、

私には何ともしかし、ねぇおっかさんどうでしょう」

「さようねぇ、私もお前のお説さ。ほかのことはともかくもお八重があんまりかわいそ

うだから」

「あらおっかさんも兄さんもそんなことおっしゃっちゃいけませんよ。何に顔をさらす

たって人に恥じることをするのじゃなし、白几帳面(とてもまじめ)のことをするのに

何も悪いことはないと私は思いますわ。そりゃあ大変事柄が違いましょうけれど大臣様

華族様方が慈善会とかいうものなさるじゃございませんか、どう事柄が変わっても多

くの人に物を売る道理は少しも変わりゃしません。人中へ顔を出さないなんかっていう

のは昔のことですわ。まして私らなんざ何構うことがありますもんか、いくらでもお金

の取れることをして早くよくなる工夫をするのですもの。それに最下等の七銭よりほか

取れないだろうということもなかろうかと私ゃ思いますわ。なんでもこれまでという

制限があることでもその決まりより上に上がりたいのよ、一番上等が二十銭なら二十二

三銭取れるようにしたいの。ねー兄さんどうぞ出してちょうだいな」と熱心に言い出す

ので千代二は組んでいた手をほどいて、

「それほど進んで言うことを無理に止めるもかえって変なもの、おっかさんだって私だ

って他に異存はないけれど、ただお前がかわいそうだと思うから止めたけれどもしお前

が奮発してやってみようというならそうしてもらおうよね、おっかさん」

「あー、だんだん聞くとそれもそれだから千代二とよく相談するがいいさ。」

「しかしねぇお八重さん、あんまり血気にまかせて向こう見ずやっちゃいけないよ。私

がもう少し歳でも取ってりゃそんなにお前にまで心配させないもの」

「あら嫌だ兄さんもったいない。私ゃやっぱりこういう性分なの、これが好きなんです

もの、それじゃあおっかさん今のうちにちょっと先方へ挨拶をしておきましょ」と立と

うとしたので、

「まぁお待ち、もうそろそろ暗くもなるしご膳でも食べてにおしよ」

「本当ねえ、じゃあそうしましょう。どら私は燈の支度をしましょうよ」と身軽に立っ

て、持ってくるらんぷの三分じんらんぷ(?)の光は薄いけれど家の中に光を添えた。

                  二

 お父さんお父さんお目が覚めましたか。お目が覚めたら薬にしましょう、何今度の薬

はそんなに上がりにくくはないようですよ、あるこうるが入っていますから。お父さん

お口直しは昨日大家さんでいただいたころ柿、はぁこれは甲州のですとさ。そうですか

少し庭がご覧あそばしたいの。

 一つ上がれと乗せてくる縁の欠けたわれを敷き、薬と共に差し置けば父は病の床を居

直って雪や今日はだいぶいいかと思うからそんなに心配するなよ。ああ今日はもう七日

だなぁ、去年の暮れからこの俺がどっと床へ着いてしまったからほんの当座のいんふり

えんざと思っていたのが大事になり、まぁちょうど一月越し。足りないものはいよいよ

足りなく、さぞ手前が困ることだろうと思うけれど、意地も我慢も病には勝てぬから

どうもこうもしようがない。

 

 お父さんただいま。お目覚めですか、ああお薬を召し上がって。そうでございました

か、それじゃあちょうどよございましたわ。これご覧あそばせ、こんなよいころ柿、

お父さんお食べ、お好きですからねぇ。今表で見かけましたから採ってきました、お口

直しにおひとついかが。

 春だと言って世の人は作り飾っている晴れ袖を、いつ着せたままの着物やら、もう

これ十六という歳。世が世であればお嬢様で島田に結わせる歳ながら、束ねたままの

銀杏返し。せめて私が体がよくは、少しはお前の手助けになりもしよう、なられもしよ

うに三歳越しの長患い。それでもまだその中までは悪いながらもましながら、かてて

加えて流行のいんふりえんざとやらで寝た限り故、さぞ困事であろうのうと言いつつ

こぼす一滴をこちらはわざと笑顔で答え、何おとっさんそんなにおっしゃいますなよ、

私島田は大嫌い、結える時でも結いはしないわ、それよりこの方がよいのよ。着物った

ってこれでたくさん、着物が悪いなら人でないとは言いやしません。向こう裏のはんけ

ち屋の娘、あれをご覧あそばせな、着物は通して柔らかづくめ、うまいものも食べます

し、おもしろいこともするか知れませんが、旦那殿だとか何だとか聞くのも嫌なことを

しているのですから、前でこそ知らん顔をしているようなものの誰も相手にしやしませ

ん。それから思えば私は天にも地にも恥やしません、汚れた柔らかものよりも清い木綿

がよござんす。なぁにおっかさん案じなさんな、案じるよりは生むが安いでそんなに

困ってばかりいやしません。七転八起ですよ、今に今にどうかなりますわ。そのことは

心配しないで、精出して薬を上がれ、そして早く治っていついつまでも丈夫でねぇ、

よくなるところを見せてくださらなくちゃいけないからねぇ。ほんにお前の言う通り、

そうぐずぐず言っても仕方はない、ああおとっさんさえ世にお出ならまたどうかしよう

もあろうに。

                 三

 飛鳥川の(ように)流れ浮き沈みのある世と思えばこそ、こういうこともあるだろ

う。久方の雲の上を見れば錦衣九衣肥馬馬車、何の集会だろう。この宴席で越後屋仕立

ての振袖も似合わないと二度とは着ず、学校通いの束髪も人が結ったのは気に入らず、

自分で二時間をつぶして手伝う侍女らに当たりながら今日は行かないと言うような姫君

もいる中、自分は生まれ出て二十四年引っつめの銀杏返しのほか夢にも思わず、忘れも

しない七つの歳に柔らかい着物というのは前後ただ一度、地主の娘の着古しという飛び

八丈の一つ、わが身の晴れと思ったが、それすら今は切れ果てて胴着の袖に名残をとど

めて跡かたもなくなってしまった。

 そもそも母は私が四つの歳に亡くなって、杖にも柱にもただ一人の父が今はもともと

虚弱の体に沢山の辛苦を重ねたので一昨年の暮より引き続いて病気、看病するといって

もこの貧苦の中に