孤蝶の手紙 三

 女史の筆はますます健やかなことでしょう。当地の寒気は恐れるに足らず、湖山の雪

景色はすこぶるおもしろいです。別れてからまだ二十五日ほどなのにもう一年もお姿に

接していないような心地がするのもおかしいです。六日の夜の会合はすこぶるおもしろ

かった。売文の大家戸川残花先生が空ざま(?)にその長い顎を振って大いに談ぜら

れ、購買の周旋屋関厳次郎定九郎が鉄砲玉を食らったような顔つきをして笑うところ

などなかなかの見ものでした。禿木はすこぶる酩酊し舞踏病にかかった患者のように、

あるいはなまこの体操のようにやたらと騒ぎ回ったのも一興を添えました。七日の朝の

ステーションの別れはよっぽどつらかった。車窓から首を伸ばして見る方には藤村、

秋骨、尚絅の三人がいて、別れを惜しむかのように長い長い柱の列に彼らの姿が隠れて

見えなくなった時の感情は今となっては何と言うべくもない。大磯には一時下車する

だけで直ちに西行するべく決心していましたが(客引きの)少女たちに引き留められて

一夜をその宿で明かしてしまいました。夕暮れの散策では美しい景色に浮かれて国府津

まで三里ばかり歩きました。海辺の晩景、遠山は暮れ、孤帆が家路に急ぐ様子、さまざ

まな思いが胸に浮かびました。鉄車は闇を縫って私を再び大磯へ運びました。翌八日朝

沼津に向かい、そこで数時間費やして名古屋で一夜を明かし、つつがなくこの地には

九日の昼頃着きました。僻地だと思うからか市中を歩いて舞踏高歌の声を聞く時は、何

となくえびす(野蛮な)歌を耳にしているような思いがするのもしばしばです。雪を踏

んで古城に登り、坂道を迂曲して旗亭楽々園で飲めぬ酒を仰いでわずかに心中の感慨を

静めようとするのが私のこの頃の習わしです。去る二十一日夜八時にかろうじて脱稿

た「柴刈る童」を携えて郵便局に向かう数町は寒風凛冽なので行き会う人も大変稀、

路傍の旗亭には乱舞踏歌の音があり、連想されたのは昨年の暮れの二十五日の夕べ、

鴎盟館の一室で遠く歌舞の曲を聞きながら秋骨が来ないことを嘆いたことを思い起こさ

せ、ついには都でのことが潮のようにわが胸に湧き返って、夢の中を歩いている人の

ようになったこともありました。

 京都かあるいは大阪に転じるかもしれないし、それともどちらもだめかもしれないが

今談判中で、このことがまとまれば家を挙げて都を辞すようになるので、諸君と会う

便宜を失いすこぶる心が痛むのですが、今のこのまま老いた親と別れていることは非常

に不便で不安なことであり、何事も時世時節と諦めなければならないでしょう。雪降る

朝学校の門前で囚人が護送されるところを見て、何となく悲しい感じに打たれ、今の

ように善にも悪にもつかず宙ぶらりんでいるよりも勝手なことをして落ちて落ちて底の

底まで行く方がよくはないかなどと思いながら歩くうち、雪空に冴える課業の始まりを

告げる鐘の音に驚かされて我に返りました。

 楽々園で遊んでいる時隣室に招かれていた雛妓(おしゃく:半玉)の十四五歳ばかり

が私たちの部屋に来て酒を汲み肴を勧め、しばし私たちを慰めてから去りました。珍し

いくらい穏やかな少女でした。無邪気な態度が今もなお脳裏にあり、いわゆる芸妓なる

ものにはろくなものはないだろうが、おしゃくの中にはなかなか愛すべきものがあるこ

とを知りました。といっても深い心のある都の女や達引(意気地)ある都の女には比べ

るべくもありません。例の暇つぶしなどとのお取り沙汰の儀はひとえにごめんです。

人の座敷の芸妓のおかげで酒を飲むような、すこぶるはかない境涯を憐れみ給わります

よう、まずは右お笑い草に取り交ぜて、かくのごとしでございます。 敬具

一月二十九日夜 かつや

おなつ様

 ご家内様一同へよろしくお伝えくださいますようお願いいたします。

 

 ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。雪ばかり降り続いて寒山積雪の遠景は

なかなかおもしろいです。文学界第三十七号をただいま落手し「たけくらべ」の結びを

確かに拝読いたしました。編末の数行は、例の大海の彼方に漕ぎ行く船の名残のような

ご筆法、すこぶる画竜点睛の感に堪えません。思うに諸氏の筆ますます熟し、想もまた

円満に近づくにも関わらずなお私の「柴刈る童」が、流水日記時代の幼い感情を脱する

ことができないのは、何となく真ッ昼間化けて出た狐が草鞋を頭に乗せている様子の

おかしげなのと同じようで、おのづから汗顔の至りでございます。天知の「末摘花」は

さすが実(体)験から出たとのことでなかなか真に迫っていたようです。教頭殿とやら

の八面(八方美人)主義はあるところまで作者先生のお身の上で実行したことだと思い

合わせられておかしいです。天知はうまく松井(妻)を生け捕りましたが、お浦さんの

ように恨む人も多いことでしょう。しかしちょっと笑って見せればすぐほろりとするよ

うな学校育ちのお嬢様が恨んだとて恐れることもなく、直次をおだてたお蘭様のような

ことは決してないと思います。こんな井戸端の茶碗のような女をだましても手柄には

なりませんから、こんなことに憂き身をやつす大将のお鼻の下の具合を測量するには

なかなか日数がかかることと思います。

 この度の文学界には十二角生という人の女流小説の評論があり、私はひたすらに呆れ 

ました。間が抜けているといってもこれくらいならば申し分く、この論と孤蝶の「草刈

る童」のうわごととでこの号のばかさを完全にしたとでも言えましょう。「名誉夫人」

をもって明治の文壇の遠く及ばぬ神来の大作のように誉めたてた十二角生の眼光の小さ

さをただ憐れむに堪えません。我々が辛苦するのは「名誉婦人」のような単純な作を

成すことではなく、ある複雑な人生の義理人情と衝突する人間を描こうとするところに

あるのは今さら言う必要もないでしょう。文章の調子や情景の具合に目がくらんで肝心

の内包する趣旨を見損なう人が多い世間なのでこれも致し方のないことでしょうか。

しかしこのような俗論を紙上に掲げる文学界編集者の間抜けさにとても驚きます。人情

の一方面、感情の一発作を描くのが我々の最後の目的ではなく、活動する人物とその

周囲の世間とを写すことが我々の期するところです。この目的のためには各自あらゆる

想をひそめ心を苦しめて昼夜煩悶するのです。しかるに「名誉婦人」のような幼稚な作

を取り出して明治の文壇はいまだこれに及ばずと言う無礼な青二才、露伴紅葉眉山達は

すでにただの零編を綴るという境を脱して深刻なる詩趣、麗妙なる理想を握ろうとして

いるではないか。名誉婦人くらいの作ならば不肖私如きでも必死になればできないこと

もなかろうと思われるが、これはうぬぼれでしょう。だいたい批評家なるものは無責任

で察しのないものなので私は嫌いです。長年作者に同情を表すをもって主義とし、素人

臭い俗論を排して文学の前途を守ろうとしている文学界紙上にこれほどまでの俗論が、

しかも明治二十九年の今月今日載せられるにいたるとは、ひたすら驚き入るよりほか

ありません。

 十二角生とは誰だろう、秋骨あり、禿木あり、藤村あってなおどこの者やら分からぬ

輩の俗論が我々の古城に入ったのだろう、ああ長大息の至りに堪えられません。私は大

に歯に衣着せぬ罵倒を筆にして紙上に投じたいと思うが、編集部の腰抜け共のこばむ

ところとなることが腹立たしいので止めました。退いて考えると私のような無茶な文章

を出稿しておきながら人の論に悪口するのは実に済まない次第なので、「柴刈る童」の

出た号には何が出ていても何とも言えない義理でしょう。これから自分の下手な文が

出ない時にたんと悪口を叩くことにします。申したいこともありますが少々眠くなりま

したのでここで提灯を振り置くことにします。 左様なら

二月三日夜 勝弥 

一葉様