2022-01-01から1年間の記事一覧
六 「珍しいこと、この炎天に雪が降りはしないかしら。美登利が学校を嫌がるのはよっ ぽどの不機嫌、朝ご飯が進まなければ後で寿司でも頼もうか。風邪にしては熱もない から昨日の疲れというところでしょう。太郎(稲荷)様への朝参りは母さんが代理で して…
三 解いたら足にも届くような髪の毛を根を上げて固く結び、前髪が大きく髷が重たげな 赭熊という名は恐ろしいが、これがこの頃の流行だと良家の令嬢も結うのだとか。色白 で鼻筋が通り、口元は小さくはないが締まっているので醜くはない。一つ一つ取り立て …
一 (ここから)回ると大門の見返り柳まで長い道のりだが、お歯黒溝に燈火が映る三階 (妓楼)の騒ぎは手に取るように聞こえる。明け暮れなしの車の行き来にはかり知れな い全盛を見、大音寺前という仏臭い名だが大層陽気な町だと人は言う。 三島神社の角を…
七 「思い出したって今さらどうにもならない、忘れてしまえ、諦めてしまえ」と心を 決めながら、昨年の盆にはそろいの浴衣をこしらえて二人一緒に蔵前(の焔魔堂)に 参詣したことなどを思うともなく胸に浮かび、盆に入ってからは仕事に行く気力がなく なっ…
五 誰が白鬼と名付けたか、無間地獄(銘酒屋:私娼を置いた居酒屋)を風情あるように 作り上げ、どこかにからくりがあるようにも見えないが逆さ落としの血の池地獄、借金 の針の山に追いやるのもお手の物だと聞けば、寄っておいでよという甘い声も蛇を食べ …
四 客は結城朝之助といって自ら道楽者と名乗ってはいるが折々実直なところが見える。 無職で妻子なし、遊び盛りの歳なのでこれを始めに週に二三度通ってくる。お力もどこ となく懐かしく思うようで三日見えなかったら文をやるようになり、朋輩の女たちは や…
一 「おい木村さん、信さん、寄っておいでよ、お寄りといったら寄ってもいいじゃない か、また素通りで二葉屋へ行く気だろう、押しかけて行って引きずって来るからそう 思いな。本当に風呂なら帰りにきっと寄っておくれよ、嘘つきだから何を言うかわかり ゃ…
父親は先ほどから腕組みをして目を閉じていたが、「ああお袋、無茶なことを言って はならぬ、わしも初めて聞いてどうしたものかと思案に暮れる。お関のことだから並大 抵ではこのようなことを言い出しそうにない。よくよくつらくて出てきたと見えるが、 それ…
一 いつもは威勢のよい黒塗りの(自家用)車で、「それ門に車が止まった、娘ではない か」と両親に出迎えられるのに、今夜は辻で飛び乗った車を返して悄然と格子戸の外に 立つと、家内から父親の相変わらずの高い声、「いわば私も幸運な一人だ、おとなしい …
十 我と我が身について悩み、奥様はむやみに迷っている。明け暮れの空は晴れた日でも 曇っているかのよう、陽の色が身にしみて不安に思ったり、時雨が降る夜の風の音は、 人が来て戸を叩いているようで、淋しいままに琴を取り出して一人で好みの曲を奏でる …
七 お町が声を立てて笑うようになって、新年が来た。お美尾は日毎に安らかならぬ面持 ち、時には涙にくれる日もあるが血の道のせいだと本人が言うので、与四郎はそれほど 疑わずにただただこの子の成長することだけを話して、例の洋服姿の見事ならぬ勤め、 …
四 浮世に鏡というものがなければ自分の顔が美しいのか醜いのかも知らず、分をわきま えて満足し、九尺二間(貧しい家)に楊貴妃や小町を隠して、美人が前掛けをかけて (せっせと働く)奥床しく過ごしたことだろう。なにかと軽薄な女心を揺さぶるような 人…
一 霜夜も更けて、枕元に吹くともなく妻戸の隙から風が入り、障子紙がかさこそと音を 立てるのも哀れで淋しい旦那様のお留守、寝室の時計が十二時を打つまで奥方はどうし ても眠ることができず、何度も寝がえりをして少し癇性の気が出て、いらない浮世の さ…
夕暮れの店先に郵便脚夫が投げ込んでいった女文字の文一通。こたつの間の洋燈の下 で読んで、くるくると巻いて帯の間に収めると(落とさないかと)立ち居の気配りが 並大抵ではなく、顔色に出ると見えて結構人(お人よし)の旦那様がどうかしたのかと 聞く、…
カモメが砂浜で海を見ている。こういうのあまり見たことなくておもしろかった。 10年位前に両手首の鈍痛に悩まされ病院に行ったが相手にされなかった。その後機織 りに出会って没頭し気にならなくなった。その頃一度腰に電気が走ったことがあり、 これのひど…
「お京さんいますか」と窓の外に来てことことと羽目板を叩く音がする。「誰だい、 もう早く寝てしまったから明日来ておくれ」と嘘を言うと、「寝たっていいさ、起きて 開けておくれ、傘屋の吉だよ、俺だよ」と少し高い声で言う。「嫌な子だね、こんな 遅くに…
石之助という山村家の総領息子、母親が違うので父親からの愛も薄く、これを養子 に出して家督は妹娘の中からという相談を十年も前から耳に挟んでおもしろくなく思っ ている。今の世では勘当(江戸時代のもの)されないだけ儲けもの、思いのままに遊ん で継母…
車井戸の綱の長さは十二尋、勝手は北向きなので師走の風がひゅうひゅうと吹き抜け て寒い。堪え難くてかまどの前で火をいじる時間が延びれば、薪少々のことで大げさに 叱り飛ばされる女中の身はつらい。 最初、口入屋のおばあさんから「お子様方は男女六人、…
八 百花に先駆けて咲く梅の花、鶯よ来て鳴け、花瓶が完成し我が家には春風が吹いて いる。四窯八度の窯の心配(一対の花瓶が完成するまで)、薪の増減や煙の加減、火の 色に胸を燃やし、温度に気を痛めて、ひびが入らないだろうか、絵の具が流れないだろ う…
五 床下のこおろぎが鳴いて、都大路に秋を感じる八月の末、宮城の南三田の近くの民家 二、三十戸を買い取って工事を急いでいるのは何だろう。立てた杭には博愛医院建設地 と黒々と記され、積み上げた煉瓦の土台に木遣りの声がにぎやかな中で四方に聞こえる …
三 十三の年より絵筆を取って十六年、この道一心の入江頼三は富貴を浮雲の空しいもの としていてもなお風前の塵一つ、名誉を願う心が払い難く、三寸の胸の中は欲の火が常 に燃えて、高く掲げるべき心鏡の曇りというのはこれだけだ。といって世に媚人に媚び …
さて「うもれ木」これはほとんど読んだことがない。幸田露伴の「風流仏」の影響を 受けているそうなのでこちらもいつか挑戦、できるかな…あ、いきなり両方とも羅漢で 始まってる。 一 一穂の筆の先に描き出すのは五百羅漢十六善神、空に楼閣を構え、思いを回…
洗い髪を束髪にして、ばらの花の飾りもない湯上りの浴衣姿、素顔の美しい富士額が 目に残る。世間は荻の葉に秋風が吹くようになったが、蛍を招いた団扇と面影が離れ ない貴公子がいた。駿河台の紅梅町に名高い明治の功臣、千軍万馬(つわもの)の中の 一人と…
そろそろ大団円、というか奇跡の4年の作品に入る。初期の作品は終わりがはっきり しないか死ぬ、絶世の美女のお涙頂戴物のように思って読み流していたが、訳してみる と一葉の経験らしき場面や、登場人物の変な行動にも訳があったり、女主人公にちゃん と考…
四 男も女も法師も童子も器量がよいのが好きだとは誰が言ったか色好みの言葉だろう。 杉原三郎と呼ばれる人は面差しが清らかで立ち振る舞いも優雅、誰が見ても美男子で 罪作りである。自分のために二人が同じ思いに苦んでいるなどとは思いもよらず、若葉 の…
一 池に咲くあやめ、かきつばたのように(甲乙つけがたい)鏡に映る花二本、紫では なく白い元結をきりっと結んだ文金高島田、同じ好みの丈長(リボン状の紙の飾り)は 桜模様、あっさりとしてほのかに色香が漂う姿には身分の差がなく、心に隔てなく、 喧嘩…
お縫にしてもまだ年若いので桂次の親切が嬉しくないわけはない。親にさえ捨てられ たような私のようなものを気にかけてかわいがってくださるのはありがたいとは思う が、桂次の思いに比べるとはるかに落ち着いて冷静だった。「お縫さん、私がいよいよ 帰国し…
酒折の宮、山梨の岡、塩山、裂石、差手の名さえ都人の耳に聞きなれないのは、子仏 峠、笹子峠の難所を越して猿橋の流れにめくるめいても、鶴瀬や駒飼も見るほどの里で もなく、勝沼の町といっても東京の場末のようなところであるからだろう。甲府はさす がに…
隔てというものは間にある建仁寺垣(竹の垣根)に譲って、共同で使う庭の井戸の水 の清く深い交わり、軒端に咲く一本の梅の木が両家に春を知らせ、香りを分かちあう 中村と園田という家があった。園田の主人は一昨年亡くなり、相続は良之助という二十 二歳の…
口に出して私が我が子がかわいいということを申しましたら、さぞ皆さまは大笑い されるでしょう、そりゃあどなただって我が子が憎いものはありません、とりたてて 自分だけが見事な宝を持っているように誇り顔をするのはおかしいとお笑いになるで しょう、で…